紅林麻雄は、20世紀中頃の日本の警察界において、その卓越した捜査能力で多くの事件を解決し、一時は名刑事としての評価を受けていました。
彼の捜査手法は緻密であり、多くの難事件を解決に導いたことから、彼の名は広く知られるようになりました。
しかしながら、彼のキャリアの中で、特に後期になると、その捜査手法に疑問の声が上がるようになりました。
彼の指揮のもとで行われた取り調べにおいて、度重なる過酷な手法が用いられたとの指摘がなされ、これが多くの冤罪事件を生む要因となったとされています。
このような背景から、彼は「拷問王」という不名誉な異名を持つようになりました。
この記事では、紅林麻雄の経歴、彼が関与したとされる冤罪事件、そして彼の私生活や家族について、詳細にわたって解説していきます。
彼の生涯を通じて、日本の刑事捜査の歴史やその背後にある社会的背景を理解する手助けとなることを目指します。
紅林麻雄の名刑事→【拷問王】になるまでの経歴、紅林麻雄の経歴:巡査部長~警察署次席警部、退職まで
紅林麻雄のプロフィール
- 生年 :1908年
- 没年月:1963年9月(享年55歳)
- 出身地:静岡県藤枝市
磐田警察署所属の巡査部長時代
1941年、静岡県を震撼させた「浜松連続殺人事件」が発生。
この難事件の捜査の中心にいたのは、磐田警察署の巡査部長、紅林麻雄でした。
彼は、捜査班8つの中で第6班のリーダーとして、4人の熟練した部下と共に事件の解明に挑んでいました。
しかし、事件捜査の過程で、紅林は第三の事件現場にて、真犯人との接触機会を逸してしまいます。この判断ミスが、後の第四の事件の発生を招くこととなりました。
それでも、彼の持つ独自の捜査手法と情熱は、浜松連続殺人事件の解決に大きく寄与。
事件後、紅林麻雄は検事総長より捜査功労賞を受け取りました。
この功績は、彼を一躍時の人としてメディアに取り上げられることとなりました。
ただ、一部の評価では、警察の宣伝活動の一環として彼が過度に称賛されたとの声も存在します。
この事件を契機に、紅林麻雄は「強力犯捜査」の第一人者として、静岡県警察の中でその影響力を増していきました。
しかし、彼の捜査手法や判断基準は、後の時代において、冤罪事件の原因として指摘されることとなりました。
浜松署刑事部長から県警本部の刑事課への栄転
紅林麻雄のキャリアは、浜松連続殺人事件の捜査を通じて、急速に上昇しました。
彼はこの事件の捜査を指揮する中で、浜松署の刑事部長に抜擢されることとなった。その後、1944年3月18日には、静岡県警本部の刑事課へと昇進。
この昇進は、彼の捜査手法やリーダーシップが高く評価された結果であったと言われています。
静岡県警本部の刑事課では、紅林は強力犯係の係員として活躍。
彼の独自の捜査手法や、時には強引とも言える取り調べスタイルで、多くの犯罪者を検挙に成功させました。
その結果、彼はわずか2年余りの短期間で、驚異的な25回もの表彰を受けることに。
この実績は、彼の捜査能力の高さを如実に示していると同時に、その時代の犯罪状況や警察組織の期待に応える形での成果とも言えるでしょう。
静岡県警本部(静岡県警察部)の強力犯係主任に任命
紅林麻雄さんのキャリアは、多くの転機と挑戦に満ちていました。
1945年12月、彼は静岡県警本部から静岡署に再配置されました。
その後、1946年6月7日に昇進試験を見事に合格し、警部補としての新たな地位を手に入れました。
そして、翌日、彼は静岡署の司法刑事係捜査主任としての重要な役職に就任しました。
わずか1年後の1947年2月21日、紅林さんは再び静岡県警本部の刑事課に戻り、強力犯係主任という要職に就きました。
この役職では、彼は数多くの難事件を解決し、その手腕で「名刑事」としての評価を確立しました。
しかし、その裏側には、彼の捜査手法に対する疑問と批判が存在していました。
名刑事と言われる裏で行っていた強引な取り調べ手法
冤罪と裁判
紅林麻雄さんは、数々の事件を解決して「名刑事」として評価されていました。
しかし、彼の捜査の裏側には、多くの人々が知らない暗黒の手法が隠されていました。
彼の捜査は、法の範囲を超えた行為が多く、犯人を特定するための非合法的な方法が取られていたと言われています。
静岡県警では、紅林さんの推理能力や犯人を自白させる技術が高く評価されていました。
しかし、その実際の方法は、無実の人々を逮捕し、暴行や拷問をして虚偽の自白を引き出すというものでした。
焼火箸を使ったり、取り調べ中の基本的な人権を無視した行為など、非常に厳しい手法が取られていたことがわかっています。
紅林さんは、自分の推理に非常に自信を持っていましたが、そのために供述調書を捏造するなど、真実を歪める行為も行っていました。
しかし、これらの行為が大きく問題視されたのは、彼が関わった事件での冤罪が後に明らかになった後でした。
この事実は、警察の内部評価と公の目の間に大きなギャップがあったことを示しています。
御殿場警察署次席警部から左遷→駅前派出所派出所の所長へ
紅林麻雄は、その独特の捜査手法で数々の事件を解決し、彼の捜査能力を高く評価された結果、1953年11月に警部に昇進しました。
しかし、彼の捜査手法は常に正当性が問われるものであり、特に取り調べの際の手法には多くの疑問が持たれていました。
1955年8月に御殿場警察署の次席警部として活動していた彼ですが、その頃から彼の捜査方法に対する疑念や批判が内外から高まっていました。
特に、取り調べ中の過酷な手法や、疑わしい自白の取得方法などが問題視されていました。
このような状況の中、1956年3月、彼は吉原警察署駅前派出所の所長という地位に左遷されました。
この異動は、彼の捜査手法に対する疑問や批判を受け、静岡県警の上層部が彼の影響力を制限しようとした結果と言えます。
この人事は、彼の過去の功績を考慮した上での、実質「二階級降格」とも言える厳しい処分となりました。
次席警部という要職から駅前派出所の所長への異動は、彼の実質的な権限を大きく制約するものであり、彼の捜査手法に対する不信感を示すものでした。
この左遷は、彼の過去の功績や実績を尊重しつつも、彼の捜査手法に対する疑問や批判を受けてのものであり、静岡県警の上層部が彼の行動や手法に対する責任を取る形での人事異動となりました。
55歳で警察を退職
紅林麻雄さんは、厳しい2階級の降格処分を受けた後も、1957年3月には松崎警察署の次席警部として再びその能力を認められる形で復帰しました。
しかし、彼の過去の捜査手法による冤罪事件が次第に明るみに出て、社会からの風当たりは日に日に強くなっていきました。
特に、1957年の幸浦事件では、死刑判決が最高裁で破棄されるという大きな動きがありました。
この事件の被告の無罪が1963年7月に確定したことは、紅林麻雄さんにとって大きな打撃となりました。
彼の捜査手法に対する疑念がさらに深まり、そのプレッシャーに耐え切れなくなった紅林麻雄さんは、1963年に、55歳の若さで警察を退職されました。
彼の警察生活は、数々の功績とともに、その後の冤罪事件の影響で揺れ動くものとなりました。
紅林麻雄さんのキャリアは、警察官としての高い能力と、その捜査手法に対する社会の厳しい目を物語るものでした。
紅林麻雄の謎めいた最期
紅林麻雄さんは、1963年7月、彼が関与した幸浦事件での無罪判決が確定した直後、彼は警察を退職しました。
しかし、その後の彼の運命は予想外のものでした。
退職からわずか2ヶ月後の9月、紅林麻雄さんは突如としてこの世を去りました。
彼の突然の死には多くの憶測が飛び交いました。
一部の人々は「天罰ではないか」と囁かれる中、他の一部では彼の死の背後に何らかの陰謀があるのではないかとの声も上がっていました。
彼の死の真相は、今もなお多くの謎に包まれています。紅林麻雄さんの最期は、彼の生涯と同じく、多くの疑問を残すものとなりました。
紅林麻雄の死因
紅林麻雄の死因についても、公式には「脳出血」とされていますが、その背後にはさまざまな憶測や噂が飛び交っています。
公式の記録によれば、紅林は警察を退職した後、特定の職には就かず、自宅でのんびりと過ごしていたとされています。
彼の健康状態についての詳細は不明ですが、上申書に添付された死亡診断書には、紅林が2年前から高血圧症を患っていたことが記載されています。
そして1963年9月、彼は自宅で突然倒れ、その日のうちに脳出血のために亡くなったとされています。
しかし、彼の死後の具体的な経緯や埋葬に関する情報は一切非公開です。
これには、彼の関与した事件やその後の生活に対する社会的な反感や警察の意向など、さまざまな要因が影響している可能性が考えられます。
紅林麻雄の墓の場所
インターネット上では、「紅林麻雄 墓」というキーワードを検索する人もいますが、その死後も彼の墓の場所に関する情報は一切公開されていません。
彼の生涯に関わった多くの事件や疑惑が、その墓の場所まで秘密にする理由となっているのかもしれません。
紅林麻雄の家族、親族、息子や子孫
紅林麻雄の息子や家族、子孫についての情報はネットをかなり探しましたが、見つけられませんでした。
紅林という苗字は、一般的ではないため、家族や親族は名前を変更している可能性も高いと思います。
一方、ネット上では紅林姓の有名人や一般人を紅林麻雄の子孫や家族と疑う声も散見されますが、これらの情報は確固たる根拠がなく、事実とは異なる可能性が高いです。
紅林麻雄の行為や事件に関する情報は多くの人々に知られていますが、彼の家族や子孫については、彼らのプライバシーや安全を考慮して、情報が公にされていないのかもしれません。
紅林麻雄の行為によって、彼の家族や子孫が迷惑を受けることは避けたいという思いもあるでしょう。
紅林麻雄の家族や子孫の行方やその後の人生については、今後も多くの謎が残ることでしょう。しかし、彼らが平和に生きていることを心から願います。
紅林麻雄の関わった冤罪事件一覧
紅林麻雄の関与した冤罪事件について、以下に詳しく解説します。
紅林麻雄は、過去に数々の冤罪事件に関与してきました。
これらの事件は、彼の行動や判断によって、多くの人々が不当に罪に問われる結果となりました。以下に、彼が関与した主な冤罪事件の概要を示します。
幸浦事件(1948年)
拷問王紅林麻雄によって作られた大冤罪事件
1948年11月29日、静岡県磐田郡幸浦村(現在の袋井市)で、一家4人が突如として失踪しました。
この一家には、自営業を営む主人が含まれており、彼らの失踪は地域社会に大きな衝撃を与えました。
初めは単なる失踪事件として捜査が進められましたが、時間が経つにつれて事件性が疑われるようになりました。
翌年、1950年になっても事件の真相は解明されず、捜査は難航していました。
しかし、2月になり、別件で逮捕された4人の男性から自供が得られ、事件は解決したかのように思われました。
この4人の男性は、紅林麻雄の強引な取り調べ手法によって、犯行を認める供述を行いました。
しかし、この供述には矛盾が多く、真実とは異なる内容が含まれていることが明らかになりました。
1950年、静岡地裁での裁判では、4人のうち3人に死刑判決が下されましたが、彼らは控訴しました。
この事件は、最高裁まで争われる大きな裁判となりました。
1957年、最高裁は「重大な事実誤認の疑いがある」と判断し、東京高裁に差し戻しました。
そして、1959年、4人全員に無罪判決が下されました。
この判決は、1963年に検察の上告が棄却され、無罪が確定しました。
この事件は、紅林麻雄の取り調べ手法や、日本の司法制度の問題点を浮き彫りにしたものとして、多くの議論を呼び起こしました。
冤罪が確定した後も、事件の真相や背後に隠された事実についての議論は続いています。
二俣事件(1950年)
1950年1月6日、静岡県磐田郡二俣町で、夜の静寂を破るような凄惨な事件が発生しました。
4人の家族が就寝中に命を奪われるという、地域社会に衝撃を与える事件でした。
事件現場には、被害者の腕時計が11時2分で止まっており、それが事件の発生時刻と推測されました。
さらに、犯人と思われる指紋や、被害者家族のものとは異なる27cmの靴跡が残されていました。
この事件の捜査を担当したのは、紅林麻雄。彼は2月23日、犯行現場近くに住む18歳の少年を逮捕しました。
しかし、その逮捕理由は「犯行当時の所在が不明と推測」という、非常に曖昧なものでした。
紅林は、彼の得意とする拷問や自白の強要を行い、少年から供述を引き出しました。
この供述は、報道機関に公表され、一時は事件が解決したかのように思われました。
しかし、この供述には多くの疑問点がありました。
少年には事件発生時のアリバイが存在していました。
それにも関わらず、紅林は映画のプロットを参考にして、供述を操作しました。
さらに、犯人とされる靴のサイズも少年とは一致していませんでした。
これらの矛盾点を無視し、紅林は少年を犯人と断定しました。
驚くべきことに、このような捜査結果をもとに、検察は少年を告訴しました。
そして、静岡地裁で少年に死刑判決が下されました。
しかし、最高裁はこの判決を破棄し、1956年に静岡地裁は少年に無罪判決を下しました。この判決は、1957年に無罪が確定しました。
この事件の最中、静岡県警の刑事「山崎兵八」氏が、良心の呵責に駆られて、紅林の拷問による自白やその他の不正を内部告発しました。
しかし、この告発は警察の圧力により、公にはされませんでした。
山崎兵八による告発
「島田事件」で死刑判決を受けた赤堀政夫さんの再審運動にも協力し、問題点を検討する山崎兵八さん(右)
山崎兵八は、当時「国家地方警察静岡県本部・二俣警察署」で勤務していた経験豊富な刑事でした。
彼は事件の捜査に携わり、逮捕された少年のアリバイの存在を確認しました。
この情報を捜査主任である紅林麻雄に報告したにも関わらず、紅林は自らの直感を優先し、少年を犯人と断定しました。
山崎は、紅林の捜査手法に疑問を抱き、内部告発を決意しました。
彼の告発により、警察内部は大きな混乱を迎えました。
所長は山崎に辞職を求めましたが、彼はこれを拒否しました。
その結果、彼は出勤停止処分となりました。
しかし、山崎の闘志はそこで終わりませんでした。
彼は裁判に証人として立ち、警察の不正を証言しました。
しかし、彼の証言は一審で無視され、少年には死刑判決が下されました。
さらに、山崎は「偽証罪」で逮捕され、警察からは精神異常のレッテルを貼られました。
彼の運転免許も取り上げられ、警察を退職させられました。
警察を退職した後、山崎は困難な生活を強いられました。
彼の家は不審火で焼失し、次男は放火の犯人として疑われました。このような状況下でも、山崎は正義を信じ続けました。
1970年に愛知県豊田市のトヨタ自動車に就職し、新たな生活を始めました。
しかし、彼の心の傷は癒えることはありませんでした。2001年8月、彼はこの世を去りました。
山崎兵八の生涯は、公権力に立ち向かう一人の刑事の勇気と犠牲を示すものであり、彼の行動は多くの人々に感銘を与え、日本の司法改革の一因となりました。
小島事件(1950年)
1950年、静岡県庵原郡の小島村(現・静岡市清水区)で、飴製造業を営む一家の家に悲劇が訪れました。
5月10日の深夜、家の中で32歳の妻が薪割り斧の一撃を受け、命を落とす事件が発生。
この事件は後に「小島事件」として知られるようになります。
事件当時、夫は外出しており、家には妻と子供たちだけがいました。
子供たちの証言によれば、犯人は坊主頭でカーキ色の服を着た男で、彼らはその男が家から逃げる姿を目撃しています。
事件の背後には、現金2500円の盗難も関与していたことが判明。この金額は、当時の一般家庭の生活費としては大きな額でした。
事件の捜査は紅林麻雄率いる捜査班によって行われましたが、初動の捜査では有力な手がかりを掴むことはできませんでした。
村の住民同士が緊密な関係を持っていたこともあり、捜査は難航を極めました。
しかし、事件から約1ヶ月後、村の住民である27歳の男が窃盗の疑いで逮捕されました。
この男は被害者の家族から5千円を借りており、その返済が滞っていたこと、さらに子供たちの目撃証言と犯人の特徴が一致することから、彼は強盗殺人の主犯格として疑われるようになりました。
その後、この男は強盗殺人の罪で起訴されましたが、裁判の過程で彼の自白が紅林麻雄の指示のもと、部下による拷問によって得られたものであることが明らかになりました。
さらに、紅林麻雄が得意としていた「秘密の暴露」の捏造もこの事件で行われていたことが判明しました。
この事件は、一時は無期懲役の判決が下されましたが、紅林麻雄に対する疑惑が高まる中、審理が再評価され、1959年に無罪判決が確定しました。
最高裁は「強制、拷問又は脅迫によるなど任意性に疑いのある自白調書は、刑事訴訟法322条1項及び319条1項により証拠とすることができない」と、明確に紅林麻雄の捜査方法を否定しました。
島田事件(1954年)
島田事件―死刑執行の恐怖に怯える三四年八カ月の闘い
1954年、静岡県島田市の歴史に暗い影を落とす事件が発生しました。
3月10日、快林寺の境内の幼稚園で行われていた卒園記念行事のさなか、6歳の佐野久子ちゃんが突如として行方不明になりました。
わずか3日後、大井川の南側の山林で彼女の遺体が発見されるという悲劇が生じました。
司法解剖の結果、久子ちゃんは首を絞められ、胸を凶器で殴られて命を奪われたことが明らかになりました。
この事件の捜査は、紅林麻雄の指揮のもとで進められました。
目撃情報によれば、犯人はスーツにネクタイをした、髪を7・3分けにした若い男であったとされています。
しかし、初動の捜査では有力な手がかりを掴むことはできませんでした。
事件から約2ヶ月後、岐阜県稲葉郡鵜沼町の赤堀政夫さん(当時25歳)が静岡県警によって職務質問され、そのまま島田警察署に連行されました。
赤堀さんは軽度の知能障害と精神病の前歴があり、また窃盗の前歴も持っていました。
紅林麻雄の指示のもと、赤堀さんは拷問を受け、久子ちゃんの殺害を自白することとなりました。
しかし、赤堀さんは裁判で「自白は拷問によって強要されたもので、自分は無実である」と主張しました。
一審では死刑判決が下されましたが、その後の裁判で赤堀さんの自白が拷問によって得られたものであること、そして彼には犯行当時のアリバイがあったことが明らかになりました。
長い法廷闘争の末、1989年、赤堀さんは無罪となりました。彼はこの事件によって34年8か月もの間、自由を奪われていました。
この事件は、日本の刑事裁判の歴史において、冤罪を生む要因や捜査の問題点を浮き彫りにした重要なケースとして位置づけられています。
紅林麻雄の部下「紅林チルドレン」
紅林麻雄は、彼の指導の下で育った部下たちを持っており、彼らは「紅林チルドレン」として知られています。
これらの部下たちは、紅林麻雄の指導のもとで、犯罪捜査の手法や技術を習得してきました。
特に、島田事件や袴田事件といった重要な事件に関与しており、これらの事件の捜査において、自白の強要や供述調書の捏造といった、紅林麻雄がかつて行っていた手法を引き継いで使用しています。
紅林麻雄の死後も、この「紅林チルドレン」の影響は続いており、彼らの存在とその手法は、冤罪事件が絶えない現状の背景にあると指摘されています。
これは、日本の刑事司法における深刻な問題として、多くの専門家や市民からの懸念として取り上げられています。
紅林麻雄の部下達が関わったとされる「袴田事件」(1966年)
1966年、静岡県清水市で発生した袴田事件は、日本の刑事司法の歴史において、多くの疑問点を持つ事件として知られています。
この事件は、味噌製造業「株式会社王こがね味噌」の専務の家が放火され、一家4人が殺害されるという衝撃的な内容でした。
事件の背後には、紅林麻雄という名の元警察官とその部下たちの影がちらついています。
紅林は、多くの冤罪事件を生み出したことで知られる存在で、彼の部下たちもまた、その手法を受け継いでいたとされています。
袴田巌さん、当時30歳の元プロボクサーは、この事件の主要な容疑者として逮捕されました。
彼の取り調べは、極めて過酷で、連日の長時間取り調べや人権を無視した方法が取られていたことが後に明らかになりました。
これらの取り調べ手法は、紅林麻雄の時代からの名残とも言われています。
事件の捜査過程で、特に注目されるのは、1年2か月後に突如として発見された新証拠です。
この証拠は、一度捜索された味噌タンクから見つかったもので、血痕が付着した衣類5点を含んでいました。
この衣類の血痕が、1年以上もの間、変色せずに赤いままであったことは、多くの疑問を呼び起こしました。
この点について、東京高裁は「捜査員による捏造の可能性が極めて高い」との判断を下しました。
袴田事件は、その後も多くの波紋を呼び起こしました。
1980年には最高裁で死刑が確定しましたが、袴田さん自身は無罪を主張し続け、2020年には再審請求が認められることとなりました。
この事件を通じて、紅林麻雄とその部下たちの捜査手法や、それに伴う冤罪の問題が再びクローズアップされました。
紅林麻雄は、警察を辞めた後も、その影響は残り続け、袴田事件における部下たちの行動は、その最たる例と言えるでしょう。
日本における拷問の変遷
日本の法制度において、拷問に関する取り決めは、日本国憲法第三十六条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と明確に記されています。
さらに、刑事訴訟法においても「拷問によって得られた自白は証拠として認められない」との規定が存在します。
このような強い言葉での禁止が示されている背景には、過去に拷問が一般的に行われていた歴史があります。
明治時代初頭までの日本では、拷問は正式には禁止されていなかった。
事実、拷問を通じての自白は、裁判における有力な証拠として扱われていました。
しかし、1876年(明治9年)に発布された太政官布告により、「断罪の根拠は確固たる証拠に基づくものでなければならない」との方針が打ち出されました。
そして、わずか3年後の1879年(明治12年)には、拷問制度は正式に廃止されることとなりました。
この変革は、近代的な法制度の導入とともに、人権の尊重が重視されるようになった結果であると言えます。
しかしながら、法律上の規定があるとはいえ、実際の捜査現場での拷問の実施は完全にはなくなっていませんでした。
例として、1933年には、プロレタリア文学の著名な作家である小林多喜二が特別高等警察の取り調べ中に拷問を受け、その結果として命を落としています。
さらに、1942年には「横浜事件」として知られる事件が発生しました。
この事件では、共産党の「再結成」を疑われた新聞記者ら約60人が逮捕され、その中で4人が拷問の結果、命を失っています。
これらの事例から、法律を順守すべき警察機関においても、遵法意識が十分に根付いていなかったことが伺えます。
このような歴史的背景を踏まえ、現代の日本においては、拷問の禁止を明確に定めるとともに、その実施を厳しく監視する体制が整えられています。
紅林麻雄に関連する映画
BOX~袴田事件 命とは~
紅林麻雄のような複雑な背景を持つ人物をテーマにした映画は、確かに興味深いものとなるでしょう。
しかし、現時点では紅林麻雄を主題にした映画は存在していません。
ただ、2010年に公開されたドキュメンタリー映画「BOX 袴田事件 命とは」では、紅林麻雄の部下が関与した「袴田事件」が取り上げられています。
紅林麻雄についての本
紅林麻雄について書かれた本はネットでは見つけることができませんでした。
しかし「冤罪」を研究する人にとっては価値があるようで、今村 核氏の「冤罪と裁判」、管賀江留郎氏の「冤罪と人類」「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」などで、冤罪を生み出してしまうメカニズムの一例として紅林麻雄を取り上げています。
また、事件捜査の概要をまとめた「激レア警察庁刑事局捜査シリーズ」や伊佐 千尋 氏の「島田事件―死刑執行の恐怖に怯える三四年八カ月の闘い」などがあります。
しかし紅林麻雄のような拷問はなくなったにせよ、冤罪を生み出す可能性は現代でもあるわけで、反面教師としての存在価値だけは紅林麻雄でもあったように思います。
【拷問王】紅林麻雄の経歴、退職後の死因、家族、息子、子孫について:まとめ
紅林麻雄は、戦後の混沌とした時代において、数々の難事件を解決し、その手腕をもって名刑事として一世を風靡しました。
彼の解決した事件の中には、社会的に大きな影響を持ったものも多く、その功績は多くの人々に賞賛されていました。
しかし、彼の華麗な経歴の裏側には、拷問を用いた取り調べや証拠の捏造といった不正行為が隠されていました。
特に「幸浦事件」や「二俣事件」、「小島事件」、「島田事件」といった大きな冤罪事件に関与していたことが後に明らかとなり、これらの事件は社会に大きな衝撃を与えました。
さらに、現在も疑念が持たれている「袴田事件」においても、紅林麻雄の元部下たちが不正な取り調べを行っていたことが指摘されています。
紅林麻雄は、これらの不正行為が次々と明るみに出る中、警察組織内での立場を保とうとしました。
しかし、彼が関与した事件での逆転無罪判決が続出する中、彼の精神的な負担は増大し、ついには警察を退職することとなりました。
退職からわずか2ヶ月後、彼は突如としてこの世を去りました。
公式には「脳出血」が死因とされており、享年55歳での早すぎる死となりました。
紅林麻雄の家族や子孫に関する情報は、彼の行為に対する社会的な反響を受けて、一切の公開が避けられています。
彼の家族や子孫がどのような生活を送っているのか、その詳細は未だに多くの謎に包まれています。