山本兵吉、この名前は日本の狩猟の歴史において特別な存在として知られています。
彼は、三毛別羆事件での勇敢な行動により、多くの人々から英雄として称賛され、その名は今も語り継がれています。
1915年、北海道の苫前郡苫前村三毛別で発生したこの事件は、ヒグマが開拓民に襲い掛かり、多くの命が失われるという悲劇でした。
しかし、山本兵吉の卓越した狩猟技術により、さらなる被害の拡大を防ぐことができました。
この記事では、山本兵吉の生涯や彼の家族、そして彼が育てた弟子についての詳細を深く探ることができます。
彼の背後には、北海道の厳しい自然の中で磨かれたマタギとしての深い知識と経験があり、その伝統や技術、そして人間としての魅力に迫ることができるでしょう。
山本兵吉を有名にした三毛別羆事件とは?
羆嵐 (新潮文庫)
山本兵吉は、三毛別羆事件での彼の勇敢な行動により、多くの人々から英雄として称賛されています。
この事件は、1915年に北海道の苫前郡苫前村三毛別で起こり、ヒグマが開拓民に襲い掛かり、短期間で多くの命が失われるという悲劇となりました。
山本兵吉は、その卓越した狩猟技術を活かし、この猛獣を仕留めることで、さらなる被害の拡大を防ぎました。
三毛別羆事件は、わずか2日間で開拓民7名(胎児を含む8名)が命を落とし、さらに3名が重傷を負うという衝撃的な出来事で、日本の獣害史上でも最も悲惨な事件として知られています。
事件が発生した地域、苫前郡苫前村三毛別(現在の苫前町三渓)では、今もその概要や背景が地元の公式ホームページや観光案内で紹介されています。
冬眠期間中にもかかわらず、ヒグマが人々に襲い掛かったこの事件。
開拓民たちの羆に対する警戒が不足していたことや、多くの被害者が女性(妊婦や胎児を含む)であったことが、この事件の残酷さや衝撃を一層強めています。
三毛別羆事件は、その規模や影響から、日本の獣害史上最も悲惨な事件として、今も多くの人々に語り継がれています。
山本兵吉は途中から熊討伐隊に参加
山本兵吉さんは、当時、経済的な理由から愛用の銃を質屋に預けていました。
しかし、偶然にも猟を行うために三毛別の近くを訪れていた際、この悲劇的な事件の噂を耳にしました。
地元の三渓(かつての三毛別)の住民たちの話によれば、兵吉さんは事件発生後の10日深夜や11日、12日のいずれかのタイミングで熊討伐隊に加わったと伝えられていますが、具体的な日時や参加の経緯は明らかになっていません。
さらに、13日の午後6時ごろ、兵吉さんは鈴木という隊員と共に、ヒグマが人の住まない家に入っているのを発見しました。
しかし、その場面でヒグマを撃つことはできなかったようです。
14日の朝方、ヒグマを仕留める
14日の明け方、山本兵吉さんは他の隊員たちと共に大規模な猟を開始しました。
彼は他の隊員たちとは異なるルートを選び、山を進んでいった際、頂上近くのミズナラの大木の下で休息をとっているヒグマを目撃しました。
彼は慎重に20メートルほど前進し、ハルニレの木の陰から銃を構え、ヒグマの心臓付近を狙って発砲しました。
一発目の弾が命中したにも関わらず、ヒグマは立ち上がり、兵吉さんの方を向いたため、彼は迅速に2発目を放ちました。
その弾はヒグマの頭部を貫通し、午前10時には、7人の命を奪ったこのヒグマは、山本兵吉さんの手によって討伐されました。
山本兵吉さんのこの行動は、彼の長年のマタギとしての経験と深い知識に裏打ちされていました。
彼の狩猟技術は単なる技術だけでなく、多くの人々の命を救うための勇気と決断力を持った行動であり、多くの人々から賞賛されています。
彼の行為は、ただの狩猟としてではなく、地域の安全を守るための英雄的な行動として評価されるべきです。
羆を射殺した山本兵吉の銃
ベルダンII M1870 引用元 Chicago blog
山本兵吉さんが46歳の時、日露戦争が始まり、彼もその戦争に参加しました。
彼が日常的に持ち歩いていた銃は、ロシア製のボルトアクション方式のライフル、ベルダンII M1870でした。
この銃と彼の特徴的な軍帽は、日露戦争の戦場からの戦利品として手に入れたものです。
このベルダンタイプⅡモデル1870は、単発のボルトアクションライフルで、山本氏が三毛別羆事件で獰猛なヒグマを射殺した際に使用したと考えられます。
ボルトアクション方式の銃は、弾丸の装填を手動で1発ずつ行う必要があり、連射速度は速くありません。
しかし、山本兵吉さんはマタギとして、一発で的確に獲物を仕留める技術を持っていました。
そのため、彼にとってこの銃は最適で、彼の高い射撃技術と相まって、獲物を一発で仕留めることができたのです。
事件後の山本兵吉:92歳で死去するまで
三毛別羆事件後、山本兵吉さんは三毛別に新しい家を構え、家族を鬼鹿村から呼び寄せて共に生活を始めました。
しかし、彼の英雄的な行動により、村人から特別視されることとなり、時折その注目を避けるために酒に逃げることもありました。
酒の席でのトラブルや家庭内での喧嘩も耳にすることがあり、兵吉は酒を呑んでは妻を殴るので、妻が子供を連れて鬼鹿村へ帰ることはしょっちゅうだったようです。
しかし、彼の子供たちや後輩に対する態度は温かく、特に後に猟師として名を馳せる大川春義には、熊撃ちの技術やコツを惜しみなく伝授していたと言われています。
多くのメディアでは、山本兵吉さんの性格を荒々しく描写することが一般的でしたが、孫である山本昭光さんの証言によれば、彼は基本的には優しく、面倒見の良い人物であったとのこと。
山本兵吉さんの生涯は、1950年の7月、故郷の初山別村での92歳で死去しました。
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山本兵吉の生業:マタギとは
マタギ列伝
山本兵吉さんは、北海道の厳しい自然の中で生き抜くマタギの文化に深く根ざしていました。
マタギとは、アイヌ文化を起源とする大型動物の狩猟を専門とする者たちのことを指します。
特に明治から昭和の終戦前までの時代に、その伝統や文化が形成されてきました。
このマタギの文化は、日本の東北地方から北関東、甲信越地方の山岳地帯に広がっています。
彼らは伝統的な方法で、集団での狩猟を行いました。
その主な獲物は、ツキノワグマやニホンカモシカでしたが、昭和初期にニホンカモシカが乱獲の影響で天然記念物に指定されたため、クマを中心とした狩猟が主流となりました。
マタギたちは、狩猟の際に獲物を仕留めた後、山の神への感謝の儀式や獲物の御霊を慰める儀式を行いました。
これらの儀式は、修験道や真言宗の影響を受けており、各マタギの地域ごとに独自の風習や呪文が存在しています。
また、現代のマタギは鉄砲を使用していますが、明治維新以前は火縄銃や熊槍、トリカブトの毒矢などが使用されていました。
アイヌの人々も、罠を見回る際に、トリカブトの毒を塗った槍「オプクワ」を持参していたと言われています。
山本兵吉さんも、このような伝統的なマタギの文化の中で、その技術や知識を磨き上げてきたのでしょう。
彼の生涯は、マタギとしての誇りと、その伝統を守り続ける姿勢に満ちていました。
山本兵吉のマタギとしてのすごさ
山本兵吉さんは、幕末の時代に生まれた猟師で、その技術と経験は非常に高く評価されています。
彼の若い日々は、樺太の厳しい自然の中で過ごされました。
特に、ヒグマをただの鯖裂き包丁で仕留めたという逸話は、彼の狩猟技術の高さを物語っています。
この勇敢な行動から、「サバサキの兄」という異名を持つようになりました。
彼の狩猟の腕前は、エゾヤマドリやエゾリスといった小動物にも及びました。
実弾1発でこれらの動物を的確に仕留めることができたと言われています。
しかし、彼の最も印象的な実績は、生涯で300頭ものヒグマを捕獲したことでしょう。
この数字は、彼のマタギとしての卓越した技術と経験を証明しています。
山本兵吉の家族や息子
山本兵吉さんは、三毛別羆事件での活躍により、多くの人々に知られる存在となりました。
しかし、彼の私生活や家族に関する情報は、驚くほど少ないのが現状です。
彼には嫁と子供がいたことは知られていますが、その詳細や子供が後にマタギの道を選んだのかどうかは、はっきりとした情報が伝わってきていません。
家族の人々がどのような生活を送っていたのか、また、彼らがどのように兵吉さんの活躍を見守っていたのか、その背景には多くの謎が残されています。
また、三毛別羆事件を基にした様々なエンターテインメント作品においても、山本兵吉さんをモデルとしたキャラクターが登場することがあります。
しかしその多くは、大胆で荒々しい性格の持ち主として描かれていることが多いです。
これは、実際の彼の性格や生き様とは異なる可能性も考えられます。
彼の真実の姿を知るためには、さらなる研究や調査が必要となるでしょう。
山本兵吉の弟子、大川春義
山本兵吉という名は、狩猟の世界では特別な存在として知られています。
その彼のもとで技を磨いたのが、大川春義という猟師です。
彼は、山本兵吉のもとで狩猟の深い知識や技術を学び取り、その後もマタギとしての生き様を貫いていました。
大川春義は、北海道の苫前町に生まれた猟師で、三毛別羆事件の際には目撃者としてその様子を目の当たりにしています。
彼が幼い頃に目の前で起きたこの事件は、彼の心に深い傷として残り、その後の彼の人生に大きな影響を与えました。
彼は、犠牲者たちのために、将来、ヒグマを多く仕留めることを誓ったと言われています。
実際、彼は生涯にヒグマを100頭以上仕留めてヒグマ狩猟の名人と呼ばれるとともに、北海道内のヒグマによる獣害防止にも大きく貢献したのです。
そして、彼のマタギとしての師となったのが、山本兵吉でした。
二人の関係は、単なる師弟以上のもので、まるで親子のような深い絆で結ばれていたと伝えられています。
山本兵吉は、大川春義に対して、狩猟の技術や知識を惜しみなく伝え、彼の成長を見守っていました。
このように、山本兵吉は、映画やドラマで描かれるような荒々しいイメージだけでなく、後進の育成にも力を注いでいたことがわかります。
彼の教えを受け継ぎ、狩猟の世界で活躍した大川春義の存在は、山本兵吉の人としての側面をより深く知る手がかりとなるでしょう。
山本兵吉とゴールデンカムイ
ゴールデンカムイ 4巻
近年、山本兵吉の名前が再び注目されている背景には、週刊ヤングジャンプで連載されている話題の漫画「ゴールデンカムイ」の存在が大きく影響しています。
この作品は、日露戦争後の北海道を舞台に、アイヌ文化を緻密に描写しながら、冒険と謎解きの物語が展開されています。
三毛別羆事件のような実際に起こった出来事を基にしたエピソードは、コミック本の4巻に描かれています。
特に注目すべきは、この漫画に登場する初老の猟師、二瓶鉄造というキャラクターです。
彼は羆狩りの名手として描かれており、そのキャラクター造形の背景には、「熊嵐」という小説が影響していると言われています。
この「熊嵐」は、三毛別羆事件を基にした物語で、さらにその詳細な情報源として「慟哭の谷」という資料が参考にされています。
この「慟哭の谷」は、三毛別羆事件に関する詳細な情報を集約したもので、山本兵吉の記録もしっかりと綴られています。
この連鎖的な関連性を考えると、漫画「ゴールデンカムイ」の二瓶鉄造が、実際の山本兵吉をベースにしている可能性は非常に高いと言えます。
現代の人々が山本兵吉の名を知るきっかけとして、この漫画が果たしている役割は大変大きいのです。
山本兵吉は、三毛別羆事件で活躍した伝説のマタギ:まとめ
山本兵吉という名前は、猟師としての卓越した技術と、三毛別羆事件での英雄的な活躍で知られる伝説のマタギとして多くの人々に親しまれています。
彼はマタギの伝統や文化を深く尊重し、その結果、彼の独自の技術や知識を駆使して、生涯を通じて数多くのヒグマを仕留めることができました。
特に、日本の獣害史上でも最も悲惨とされる三毛別羆事件の解決において、彼の果たした役割は計り知れないものがあります。
さらに、彼の持っていた技術や経験は、後の世代にも引き継がれていきました。
その最たる例が、彼の弟子である大川春義です。
大川もまた、山本兵吉から学んだ技術を活かして、猟師としての名を馳せました。
この二人の関係から、私たちは山本兵吉の人となりや、彼が持っていたマタギとしての情熱や誇りを感じ取ることができます。
- 三毛別羆事件での勇敢な行動により英雄として称賛
- 1915年の三毛別羆事件でヒグマによる多数の犠牲を防ぐ
- 事件は日本の獣害史上最も悲惨なものとして知られる
- 狩猟技術を活かし、ヒグマを仕留めることで被害の拡大を防止
- 日露戦争に参加し、ロシア製のボルトアクション方式のライフル、ベルダンII M1870を使用
- 三毛別羆事件後、三毛別に新しい家を構え、家族と共に生活
- マタギとしての誇りと伝統を守り続ける姿勢
- 幕末の時代に生まれ、樺太の厳しい自然の中で技術を磨く
- 「サバサキの兄」という異名を持つ
- 生涯で300頭ものヒグマを捕獲
- 漫画「ゴールデンカムイ」のキャラクター、二瓶鉄造のモデルとしての可能性
- 弟子には、猟師として名を馳せる大川春義がいる