1985年8月12日、日本航空のジャンボ旅客機が群馬県の山間部に墜落しました。
この事故は、航空史上でも最も犠牲者数が多い事故の一つとして知られています。
機内は524人の乗客乗員で満員状態で、生き残ったのはわずか4人だけでした。
この悲劇の中心には、経験豊富な高濱雅己機長がいました。
彼は事故発生から墜落までの間、機体を制御しようと奮闘しました。
ただ、この事故から今年で38年目の夏を迎え、事故についての報道も少なくなりましたが、多くの教訓を我々に与えてくれました。
この事故は、風化させるべきではありません。
ですので、この記事では、自分も死を目前にしながら、「乗客の命を守る」という職務を全うしようと奮闘した操縦士高濱機長にスポットを当てて、日航機墜落事故を見つめ直してみたいと思います。
記事のポイント
- 高濱機長の経歴と彼の飛行への情熱や技術力の高さ
- 日本航空123便墜落事故時の高濱機長の冷静な判断と乗客の安全を最優先にした行動
- 事故の真相を知るためのボイスレコーダーの重要性とその内容の詳細
- 高濱機長の家族、特に奥様や子供たちの現在の生活や彼らが持つ父への敬意と愛情
日本航空 123便 墜落事故、高濱機長の搭乗~墜落までの経緯
1985年8月12日、日本航空のジャンボ旅客機、特にボーイング747SR型機が、群馬県多野郡上野村の険しい山地、通称「御巣鷹の尾根」に墜落しました。
今でも、航空史上でも最も犠牲者数が多い事故の一つとして記憶されています。
この日は、お盆の帰省ラッシュの最中で、機内は524人の乗客乗員でほぼ満員状態でした。
その中で、生き残ったのはわずか4人だけ。
この悲劇の航空機の操縦を担当していたのは、経験豊富な高濱雅己機長で、当時49歳。
彼は、事故発生から墜落までの間、機体を制御しようと奮闘しました。
飛行機は、その高度な技術と安全性から「世界一安全な乗り物」とも評されることが多い。
しかし、この事故は、その信頼性にもかかわらず、予期せぬ事態が発生する可能性を私たちに痛感させるものでした。
高濱機長の最期を収めたボイスレコーダー
ボイスレコーダー、特に「ブラックボックス」として知られるこの装置は、航空事故の原因究明に不可欠なツールとして航空業界で使用されています。
この装置は、CVR(Cockpit Voice Recorder)とFDR(Flight Data Recorder)の2つの主要な部分から成り立っています。
CVRは、コックピット内の音声や無線通信を記録するもので、FDRは飛行中の機体の動きやエンジンの状態などのデータを記録します。
日航123便の事故の際、回収されたブラックボックスからは、墜落直前の30分間の音声が明らかにされました。
この音声から、高濱機長をはじめとするクルーの冷静な判断と、乗客の安全を最優先にした行動が伺えます。
音声が公開された当初、高濱機長の「これはだめかもわからんね」や「どーんと行こうや」などの言葉の揚げ足をとり「最後は諦めたではないか」などという声もありましたが、すべてを聞いてみると、彼らのプロフェッショナリズムと使命感が、この記録を通じて後世に伝えられています。
ぜひ一度、ボイスレコーダーの音声を聞いてみてはいかがでしょうか。
ボイスレコーダーの全記録:PDFとYouTube
ボイスレコーダーは30分の音声データとなっています。
それをPDFデータにしたものがありますので、内容を確認したい方はこちらをご覧ください。
また、YouTubeでもボイスレコーダーについての動画がアップされていますので、音声を聞きたいという方は、こちらの動画を確認してください。
墜落後の捜索は難航:何もかもが黒い状況で
日航123便の墜落は、多くの要因が絡み合い、捜索活動を困難にしました。
事故機がレーダーから消失した際、夜の闇と山間部の地形が捜索活動を遅らせました。
事故発生から数時間後、夜空に映える炎の光が確認されましたが、具体的な墜落地点の特定は難航しました。
翌朝、夜が明けるとともに、捜索隊はようやく墜落地点を特定。
しかし、到着するまでの道のりは非常に険しく、複数の障害物や急斜面を乗り越える必要がありました。墜落現場に到着した際、捜索隊は壮絶な光景に直面しました。
火災により、機体はほぼ完全に焼失し、周囲の植生や土地も焦げ付いており、文字通り「黒」一色の景色が広がっていました。
このような厳しい状況の中、生存者4人の発見は、捜索隊の努力と奇跡の結果と言えるでしょう。
高濱機長の遺体は上顎と5本の歯のみだった
墜落事故の際、高濱機長は乗客を守るために最後まで操縦桿を握り続けていたと言われています。
その結果、彼の遺体は他の乗客や乗員と比べて大きな損傷を受けました。
事実、高濱機長の遺体からは上顎部分と5本の歯しか回収されませんでした。
この5本の歯は、以前受けた歯科治療の痕跡と一致し、高濱機長のものであると確認されました。
しかし、この事実は奥さんにとっては受け入れがたいものであり、彼女は長い間、その確認が真実であるかどうかに確信を持てなかったと伝えられています。
高濱機長の遺体損傷は他の乗客員よりも酷かった謎
高濱機長の遺体の状態は、他の乗員と比較してとても不自然だと噂になりました。
JAL123便の副操縦士、佐々木祐さんは、右手が欠損しているものの、他の部位は大部分が確認でき、炭化の状態であったと言われています。
また、航空機関士の福田博さんも、頭部や手足の一部が欠損しているものの、制服を着用した状態で発見されました。
この背景を考えると、高濱機長の遺体の状態は一層謎が深まります。
同じコックピット内にいた佐々木さんや福田さんの遺体は、概ね確認できる状態で発見されたのに対し、高濱機長の遺体からは上顎の部分しか回収されていないという事実は、多くの疑問を呼び起こしています。
コックピットが墜落時に大きな衝撃を受けたことは明らかですが、高濱機長の遺体だけがこのような状態である理由は、未だに明確には解明されていません。
最期まで職責を全うした高濱機長の経歴と家族のその後
高濱機長の経歴
事故当時:49歳 宮崎県出身 運航部門指導教官
海上自衛隊から富士航空・日本国内航空を経てJALに入社(1966年(昭和41年)12月1日)
総飛行時間:12,423時間41分(うちB747、4,842時間22分)
B747以外の保有運行資格:YS-11、B727、DC-8
高濱雅己機長は、幼少期から空を飛ぶ夢に心を奪われ、その情熱を胸に自衛隊へと足を踏み入れました。
自衛隊での経験は彼に貴重な飛行技術をもたらし、数多くの飛行時間を経て、その技術はさらに磨かれました。
その後、日本航空への入社を果たし、彼の卓越した技術力は多くの同僚や後輩から高く評価されました。
実際、彼はその実績をもとに、日本航空内で数々の賞を受賞し、その名は業界内でも広く知られるようになりました。
後輩パイロットたちにとって、高濱機長はその経歴と実績で、真のロールモデルとなっていました。
彼の飛行への情熱と、それを支える絶え間ない努力は、彼の人生が航空と共に歩んできた証であると言えます。
高濱機長と同乗した乗組員
副操縦士 佐々木祐(ささき ゆたか 39歳 熊本県出身)
B747における機長昇格訓練生
JAL入社年月日:1970年(昭和45年)4月18日
総飛行時間:3,963時間34分(うちB747、2,665時間30分)
B747以外の保有運行資格:DC-8(機長としても乗務していた)
当日の動き:別の機に乗務してからJA8119に乗り換え、訓練のため機長席に座り、操縦とクルーへの指示を担当。
航空機関士 福田博(ふくだ ひろし 46歳 山梨県出身)
エンジニア部門教官
JAL入社年月日:1957年(昭和32年)4月1日
総飛行時間:9,831時間3分(うちB747、3,846時間31分)
B747以外の保有運行資格:DC-6、B727、DC-8
当日の動き:羽田-福岡線363、366便からJA8119に乗務
妻は元CAである妻淑子さん
高濱機長の奥様、淑子さんはかつての客室乗務員(CA)として、航空業界での経験を持っています。
彼女と高濱機長は、日本航空での共通の職場を背景に、互いの夢と情熱を共有しながら絆を深めていきました。
淑子さんは、夫である高濱機長の飛行への絶え間ない情熱を身近で感じ、その背中を静かに、しかし力強く支えていました。
悲劇的な事故が発生した後も、彼女はその不屈の精神で家族を守り続け、その姿勢は多くの人々に勇気と希望を与えています。
高濱機長の息子
高濱機長の次男は、家族の中で特に注目される存在であり、彼の行動は多くの人々に影響を与えています。
事故の2年後、彼は運輸大臣に対してボイスレコーダーの開示請求を行いました。
当時は認められなませんでしたが、後にボイスレコーダーの一部が開示され、真相が明らかになりました。
この行動は、彼が事故の真相を知りたいという強い意志を持っていたことを示しています。
彼の持つ先見の明と決断力は、多くの人々に感銘を与えています。
長女は父を誇りに思っている
高濱機長の長女、洋子さんは、父の遺志を継ぎ、日本航空に入社して客室乗務員としてのキャリアを築いています。
事故当時、多くの非難の声が家族に向けられる中、洋子さんは父と同じ航空業界での道を選びました。
その決断は、彼女が「空を飛ぶ」という情熱を持ち続け、性別の違う業界での困難を乗り越えてきた証でもあります。
洋子さんの胸には、父への深い敬意と愛情が刻まれており、彼女のキャリアは父の遺志を継ぐ形となっています。
高濱機長が生きていたら、彼女の勇気と向上心、そして夢を追い求める姿に、間違いなく賞賛の念を抱いていたでしょう。
高濱機長の次女
高濱機長の次女、明子さんは、家族の絆や父の遺志を大切にしています。
毎年8月12日には、ご夫婦で御巣鷹の尾根を訪れ、父親の墓石に手を合わせる習慣があります。
この日は、明子さんが父から聞かされた話や思い出を振り返る特別な日となっています。
また、明子さんの娘、すなわち高濱機長の孫娘は、生前の高濱機長の姿を知ることはできませんでしたが、幼い頃から祖父を深く愛し、敬うことを教えられてきました。
明子さんの話によれば、高濱機長は家族を守るために命を捧げる、優しくも堅い心の持ち主であったと言います。
このように、明子さんは父の価値観や家族への愛情を大切にし、次世代にもそれを伝え続けています。
高濱機長:日航123便墜落事故発生までの経緯とボイスレコーダーまとめ
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日本航空 123便 墜落事故、高濱機長の搭乗~墜落までの経緯まとめ
- 高濱機長は1985年8月12日の日本航空123便墜落事故で搭乗していた
- 事故機のボイスレコーダーからは、墜落までの30分間の音声記録が公開されている
- 墜落現場の捜索は難航し、墜落地点の特定は翌朝の日の出後だった
- 高濱機長は自衛隊に入隊し、その後日本航空に入社した
- 彼の飛行技術とリーダーシップは多くの賞を受賞している
- 高濱機長の家族は彼の死を乗り越え、それぞれの人生を歩んでいる
日本航空123便の墜落事故は、1985年8月12日に発生し、多くの命が失われる悲劇となりました。
高濱機長は、事故の最中も乗客の安全を最優先に考え、その使命感を最後まで貫きました。
事故の詳細は、回収されたボイスレコーダーから明らかになり、その中には高濱機長の最後の瞬間も記録されていました。
事故後何年経ったとしても、この事故から学ばなければならない事は数多くあり、風化をしないよう、語り継がれていかなければならない出来事だと思います。