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木之内みどり、かつての人気女優であり、その可憐な姿と愛らしい笑顔で多くの人々を魅了しました。
しかし、華やかな芸能界を背にし、1978年に突然の引退を発表して以降、木之内みどりの足跡はほとんどメディアから消えました。
彼女がどのような経緯で芸能界を離れ、どのような生活を送っているのか、多くのファンやメディアが長年関心を持ち続けています。
この記事では、木之内みどりの引退後の人生、夫である竹中直人や二人の子供たちとの関係、また離婚や再婚の経緯など、彼女のプライベートな一面に焦点を当てています。
また、彼女のデビューから引退までの芸能活動の軌跡も深く掘り下げましたので、気になる方は最後まで読んでみてくださいね。
木之内みどりは現在何してる?
引用元 アマゾン
木之内みどりさんは1978年に芸能界を引退されて以来、公の場にはほとんど姿を見せていません。
今では、彼女の現在の生活について詳しく知る人は少ないようですが、木之内さんは現在、普通の主婦として穏やかな日々を送っているそうです。
芸能界を離れた後、メディアに登場することもほぼなくなり、夫である竹中直人さんの自宅がメディアに取り上げられた際も、彼女は表に出ることはありませんでした。
木之内さんについてのニュースはめったにありませんが、それが彼女が選ばれた生活のようです。
メディアの注目を浴びず、自分のリズムで静かな日々を過ごしていらっしゃるようです。 結婚してからは、さらにプライベートを大切にされていると思われます。
木之内みどりの年齢は?64歳
木之内みどりさんは、1957年6月10日生まれで、2021年現在64歳になります。
彼女が芸能界で活躍されていた時期は、20歳前後の若々しい時代でした。 その時の彼女は、細身のスタイルと愛らしい笑顔で、多くの人々を魅了していました。
歌手としては大ヒット曲を出すことはありませんでしたが、ブロマイドの売れ行きは驚くほどで、彼女の人気の高さを物語っています。
この現象は、当時のファンにとっては記憶に残る出来事でしょう。
今も64歳とは思えないほど、木之内さんは多くの人々に永遠の少女として記憶されています。
芸能界を離れた後は、ゴシップなどの騒がしさもなく、穏やかな生活を送っていらっしゃるようです。
そのため、公の場に姿を現すことも少なく、彼女のイメージは変わらぬまま、多くの人々の心に残っているのではないでしょうか。
再婚相手の夫、旦那は竹中直人
木之内みどりさんは、芸能界を引退されてから5年後に一度結婚されましたが、その後離婚されています。 その後、1990年に俳優の竹中直人さんと再婚されました。
竹中直人さんについてもう少し詳しく紹介します。 彼は1956年3月20日、神奈川県横浜市金沢区に生まれました。 身長は168cm、血液型はA型です。
学歴に関しては、多摩美術大学美術学部のデザイン科グラフィックデザイン専攻を卒業されています。
また、彼は現在、自身の母校である多摩美術大学の客員教授も務めており、所属事務所はレディバードです。
彼の十八番ネタとして有名なのは、「笑いながら怒る人」というキャラクターです。
竹中さんは、役者としての多面的な才能に加え、教育分野でもその知見を活かされていることがわかります。
木之内さんと竹中さんは、互いに芸能界で培った経験を持ち、お互いを理解し合うことができる関係性を築いているのではないでしょうか。
2人の馴れ初め
木之内みどりさんと竹中直人さんの出会いは、1989年に起こった特別な偶然です。
当時、竹中さんが劇団青年座のメンバーとしてスペインに滞在していた際、偶然にも同じ場所にいたのが、21歳で突然芸能界を引退された木之内さんでした。
この奇跡的な出会いは、竹中さんにとって大きなチャンスでした。
彼は木之内さんをお気に入りの喫茶店に誘いましたが、その途中で場所を見失うほど緊張していたとか。
しかし、そんな状況の中でも、竹中さんは木之内さんとの未来を感じ、強く意識していたようです。
そして、その後の展開がロマンチックです。
木之内さんが仕事でニューヨークへ行ったことを知った竹中さんは、彼女を追ってニューヨークへ行き、なんと婚姻届を持ってプロポーズしたというから驚きです。
これほどまでの愛情を示されたら、木之内さんも応えざるを得なかったでしょう。
そして1990年1月26日、竹中さんは一人で東京都目黒区役所に婚姻届を提出し、その後TBSでの記者会見で入籍を発表しました。
竹中さんのコメントでは、結婚によって初めて家庭での味噌汁を飲んだこと、そして木之内さんのコメントでは、竹中さんとの出会いがすべての過去を意味あるものに変えたと語っています。
このように、木之内さんと竹中さんの出会いは、まさに運命的なものであり、お互いにとって特別な意味を持っていることが伺えます。
竹中さんは家族を深く愛しており、その愛情は彼のキャリアにも影響を与えています。
例えば、映画「Shall we ダンス?」出演後のオリバー・ストーンからのオファーを家族との時間を重視し断ったエピソードなど、家族への深い愛情が垣間見えます。
マスコミ取材で分かった幸せな結婚生活
木之内みどりさんと竹中直人さんがご結婚されてから、新しい生活を始められたころ、マスコミの関心も高まりました。
ある日、マスコミが木之内さんの自宅に訪れた際、インターホン越しに彼女が竹中さんをどのように呼んでいるのか尋ねたところ、「竹中くん」と呼んでいると明かされました。
これは、お二人が最初に出会った時からの呼び方で、彼女はこれが自然であると感じているようです。
また、木之内さんは和食を好む一方で、竹中さんは子供のようにハンバーグやスパゲティ、オムライス、カレーライスなどを好んでいると語りました。
それでも、木之内さんが作る手料理はすべて美味しいと竹中さんが言ってくれるそうです。
さらに、竹中さんは整理整頓が得意で、新居への引越し作業も手際良く進めてくれたとのこと。
記者が芸能界への復帰について質問した際には、木之内さんは「過去に色々あったけれど、それがあったから今の竹中くんとの出会いがある。それを大切にしていきたい」と回答され、芸能界復帰は否定されました。
木之内さんは、その後もメディアの注目を避けるために帽子を目深にかぶるなど、プライバシーを守ろうとする姿勢がみられ、現在もその姿勢は変わらないようですね。
子供は娘1人に息子1人
木之内みどりさんと竹中直人さんには、一女一男のお子さんがいます。
1992年に生まれた長女の果南さんは、幼少期から成城学園で教育を受け、その後、大学卒業を経て、大手広告代理店に就職されました。
2017年には25歳で一般男性とご結婚され、現在はお子さんを授かり、幸せな家庭生活を送っているそうです。
また、彼女は実家に近い場所にお住まいで、お孫さんは頻繁に祖父母に会っているとのこと。
一方、1998年生まれの長男、星夏さんは、和光学園出身で、大学卒業後、都内のアパレルメーカーで営業職に就かれています。 未婚であるとのこと。
ネット上では、星夏さんが俳優業に挑戦しているという噂もありますが、確かな情報は少なく、一般人である可能性が高いです。
お子さんたちの教育には、幼少期から成城幼稚園、成城学園という一貫校での教育が選ばれました。
特に長女の果南さんは、噂によると大手広告代理店への就職が噂されていますが、その詳細は不明です。
竹中さんは果南さんの結婚や子育てに深く関わり、現在でも親子の絆は強いと言われています。
木之内みどりデビューから引退までの軌跡
現在も幸せに暮らしている木之内みどりさん。しかし、芸能生活は順風満帆と言えるものではありませんでした。
ここからは、木之内みどりデビューから引退までの軌跡、後藤次利との結婚と離婚について詳しく解説していきます。
木之内みどりのプロフィール
引用元 アマゾン
木之内みどりさんは、1957年6月10日生まれで、北海道小樽市のご出身です。 ちなみに「木之内みどり」というのは本名のようです。
木之内さんは、大家族の末っ子として育ち、9人兄妹の中で最も若い位置にいます。
身体的特徴として、木之内さんの身長は163センチ、体重は42キロです。 1976年当時の公称サイズでは、スリーサイズは78-57-84とされています。
血液型はA型で、教育の面では、小樽市立朝里中学校(バレーボール部に所属)を卒業し、その後明治大学附属中野高等学校を卒業されました。
木之内みどりさんは、1972年に15歳で中学3年生の時、日本テレビの「ミス・ティーン・コンテスト」に応募され、準優勝の成績を収めました。
この結果は、彼女の芸能界入りのきっかけとはなりませんでしたが、芸能界への夢を諦めることはありませんでした。
「めざめ」でアイドル歌手デビューもいまいち売れなかった
引用元 アマゾン
翌1973年、16歳の時に地元の小樽市から上京し、歌謡番組「プラチナゴールデンショー」でマスコットガールとして芸能界デビューを果たします。
そして、1974年5月10日には、フォトジェニック系アイドル専門レーベル「NAV(Nippon Audio Video)」から、ファーストシングル「めざめ」をリリースし、歌手デビューを飾りました。
しかし、残念ながら「めざめ」をはじめとするシングルの売り上げは伸び悩みました。
その後も、「あした悪魔になあれ」「ほほ染めて」「おやすみなさい」「学生通り」「グッドフィーリング」「東京メルヘン」「ジュ・テーム」「イマージュ」「走れ風のように」といった多くのシングルをリリースしましたが、商業的に大きな成功を収めることはできませんでした。
この時期、彼女は明治大学付属中野高等学校に通いながら、芸能活動を続けていました。
芸能界入りの夢を追い続ける彼女の情熱は、若さと才能に溢れていましたが、歌手としての道は容易なものではありませんでした。
それでも、木之内さんは、アイドル歌手としての活動を通じて、多くの経験と成長を遂げられたのです。
転機となる「浅井企画」への移籍
引用元 アマゾン
木之内みどりさんは、アイドル歌手としての活動と並行して、雑誌「GORO」などでグラビアモデルとしても活躍されていました。
その愛らしい笑顔と魅力で、多くの人々から高い人気を得ていました。 彼女は、当時のグラビアアイドルの草分け的な存在として知られています。
そんな木之内さんのキャリアの中で、転機となったのが「浅井企画」への移籍です。
具体的な移籍時期は不明ですが、この移籍は、芸能事務所「浅井企画」の川岸咨鴻(かわぎし ことひろ)さん(現・浅井企画専務)が彼女に一目惚れしたことがきっかけでした。
木之内さん自身も、当時所属していた事務所との関係に違和感を感じており、テレビ局を介して円満に「浅井企画」に移籍されたとされています。
当時の「浅井企画」では、主に「コント55号」(萩本欽一さん&坂上二郎さん)のような男性タレントが中心で、女性タレントやアイドルの存在は珍しい状況でした。
しかし、川岸さんは「花が一輪あってもいい」という考えを持ち、木之内さんを受け入れました。
木之内さんは派手に前に出るタイプではなかったものの、その人柄と才能で多くのスタッフから愛され、芸能活動を続けられたと川岸さんは述べています。
このように、木之内みどりさんの「浅井企画」への移籍は、彼女の芸能キャリアにおいて重要な節目であり、新たな可能性を開くきっかけとなったのです。
多数のドラマに出演。そして「野球狂の詩」のヒロインに抜擢
引用元 アマゾン
木之内みどりさんは、歌手としての道で大きな成功を収めることはありませんでした。
ですが、雑誌でのグラビア活動では非常に高い人気を誇り、当時のトップアイドルである山口百恵さんや桜田淳子さんをも上回る人気を見せつけていました。
木之内さんは、芸能界の著名人たちからも愛されており、1976年にはテレビドラマ「私も燃えている」でドラマデビューを飾ります。
さらに、脚本家の倉本聰さんによる直接の指名を受け、同年人気ドラマ「前略おふくろ様2」にも出演されました。
その後も、1977年には「B円を阻止せよ! 〜もう一つの占領秘話」、「悪妻行進曲」、「すぐやる一家青春記」、「ソーラン」、「刑事犬カール」、「まひる野」といった多くのテレビドラマに出演され、女優としてのキャリアを積んでいきました。
そして、1977年の大きな転機となったのが、映画「野球狂の詩」のヒロイン、水原勇気役への抜擢です。
この役は、原作者の水島新司さん自らが木之内さんを希望し、豊田泰光さんをはじめとする5名の審査員が参加するオーディションで、2526人の応募者の中から選ばれたことになっています。
この映画は、人気漫画の実写化ということで大きな話題を呼び、木之内さんの演技は主人公のイメージにぴったりで、彼女を女優として有名にしました。
木之内さんのこの役への抜擢は、彼女の女優としての才能を広く認知させる重要な役割を果たしました。
「刑事犬カール」での演技も評価される
引用元 アマゾン
木之内みどりさんの芸能キャリアを語る上で外せないのが、彼女が主演したTBSテレビ系のドラマ『刑事犬カール』です。
このドラマでは、木之内さんがアイドルの顔を持つ高杉洋子役を熱演し、大きな注目を集めました。
また、このドラマのもう一つの主役である警察犬カール号(を演じた犬たち)の賢さや芸のうまさも話題となり、ドラマの人気に火をつけました。
『刑事犬カール』は1977年9月から1978年6月までという、比較的長い期間にわたって放送されました。
特に、カール役を演じたジャーマンシェパード、クラッフォー・オブ・ツカサドール(通称ジル)の演技力が高く評価されました。
ジルは300頭のオーディション参加犬の中から選ばれ、その弟、妹、いとこも一緒にドラマに出演していました。
撮影は犬にとってかなりのストレスがあったようで、ジルが食欲を失うこともあったそうです。
その際には妹犬が代わりを務めましたが、ジルとそっくりだったため、視聴者からの指摘はなかったといいます。
残念ながら、1981年に撮影された続編の終了後、ジルは亡くなりました。
なお、カールの飼い主役として、『ケンちゃんシリーズ』で知られる子役の宮脇康之さんも出演していました。
『刑事犬カール』は、木之内さんにとっても、ジルにとっても、また視聴者にとっても忘れがたい作品となっています。
初のヒット曲「横浜いれぶん」
引用元 楽天市場
木之内みどりさんの音楽キャリアにおいて、特筆すべきは1978年2月にリリースされた11枚目のシングル「横浜いれぶん」です。
この曲は木之内さんにとって初めてのヒット作となり、オリコンチャートで最高28位にランクインする成果を収めました。
この「横浜いれぶん」は、当時の音楽番組「ザ・ベストテン」や「夜のヒットスタジオ」にはランクインすることはできませんでしたが、30位以内を長期間キープするロングヒットとなりました。
この楽曲の制作には、女優業やグラビアでは成功を収めていたものの、レコード売り上げが伸び悩んでいた木之内さんをサポートするため、マネージャーの川岸さんが大輪茂男さんをディレクターに迎え入れました。
大輪さんは、沢田研二さんを手掛けた経験もあり、木之内さんのイメージを一新することを目指しました。
ジャケット写真は、フランスの歌手ジェーン・バーキンを意識して制作され、白いブラウスに視線を落とした表情で、新たな魅力を引き出すことに成功しました。
楽曲自体も、従来の「はかなげなアイドル」から脱却し、ロック色の強いものに仕上げられました。
大輪さんは、「落ちこぼれた連中から声援を受けるような歌」を目指したと語っています。
発売当時20歳だった木之内みどりさんは、この楽曲を通じて新たな色気を醸し出し、彼女の歌手としての魅力が再評価されたのでした。
後藤次利と熱愛発覚、アメリカへの逃避行
1978年、木之内みどりさんは音楽キャリアにおいて重要な転機を迎えます。
彼女の11枚目のシングル「横浜いれぶん」がヒットし、続けてロック系の楽曲として「無鉄砲」と「一匹狼(ローン・ウルフ)」が制作されました。
この「一匹狼(ローン・ウルフ)」の発売直前、21歳の木之内さんから事務所に衝撃的な連絡が入ります。
木之内さんは、ロックバンド「サディスティックス」のベーシストであり作曲家の後藤次利さんとの関係が写真に撮られ、その事実を事務所に告げました。
「日本にはいられない」との思いから、二人はアメリカへの渡航を決意。 電話でその意向を伝えた数時間後、二人は成田空港からニューヨークへと向けて出発しました。
この出発の際、女性週刊誌の記者による突撃取材が行われました。
その際、後藤さんは「アメリカから帰国したらすべてを話す。僕も男です」と述べ、二人の関係については明らかにしませんでした。
この出来事は、木之内さんのキャリアにおいて大きな転換点となりました。
帰国後の謝罪会見
引用元 ヤフーショッピング
アメリカからの帰国後、木之内みどりさんは後藤次利さんと共に謝罪会見を開催しました。
この会見では、彼女は自身の行動に対する深い反省の意を表明し、「すべて自分がいけなかった」と述べました。
当時の状況を振り返ると、彼女が自分の行ったことの重大さに気付いていたことが伺えます。
会見の中で、木之内さんは「子供ができるようなことはしていません」と釈明しましたが、この言葉の真意については明確ではありません。
一方で、後藤次利さんは「非はすべて男としての自分が受ける」というコメントを残しました。
この発言は、木之内さんにとっては、後藤さんの男気を感じる瞬間であったことでしょう。
渡米するのは計画的だった?
引用元 アマゾン
木之内みどりさんと後藤次利さんの渡米は、一見すると突発的な出来事のように思われますが、実際には計画的な要素も含まれていた可能性があります。
具体的な流れとしては、木之内さんは1978年9月6日から9日にかけて地方での仕事をこなし、9月10日に東京に戻られていました。
しかし、翌日の夕方、箱崎の東京シティエアターミナルで後藤さんと一緒にいるところを女性週刊誌の記者に発見され、取材を受けることになってしまいました。
この出来事により、二人は逃げ場を失い、成田空港へ向かうことになりました。
成田空港にも記者たちが待ち構えていたため、二人はその場の判断で飛行機に乗り込んだとされています。
このとき、木之内さんがパスポートとチケットをすでに持っていたこと、また、後藤さんがレコーディングのために9月11日から渡米する予定だったことを知っていたことが後に明らかになりました。
木之内さんは後藤さんと浅井企画との面談の際に「私も次利さんとアメリカへ行きたい」と発言していたとされ、これらの事実が合わさることで、渡米が計画的だったとの疑念が生じました。
浅井企画が本人不在の引退会見を行う
1978年、木之内みどりさんの突然の駆け落ち騒動は、芸能界に大きな波紋を投げかけました。
事務所である浅井企画もこの出来事には驚かされ、事態の収拾を試みます。
木之内さんが経由地のロサンゼルスに着いた際、事務所は電話で彼女を説得しようとしましたが、木之内さんは「こんなことになってもう帰れません」と繰り返すだけでした。
この後、9月13日の夕方、マネージャーの川岸さんはニューヨークに行き、木之内さんと直接話し合う機会を持ちました。
しかし、木之内さんは帰国を拒否し、「芸能界を引退したい」という意思を示し続けました。
この結果、川岸さんは浅井企画に木之内さんの芸能界復帰の意志がないことを伝え、9月14日午後には、木之内さん本人不在の異例の引退会見が開かれました。
この引退会見によって、木之内さんの突然の行動とその後の動向が公になり、芸能界だけでなく、一般の人々の間でも大きな話題となったのです。
後藤次利と結婚するも堀ちえみとの浮気が発覚後、離婚
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木之内みどりさんは、騒動の最中にリリースされた13枚目のシングル「一匹狼(ローン・ウルフ)」を最後に、1978年に芸能界を引退されました。
その後、公の場に姿を現すことはなく、メディアからの取材も一切拒否されています。
木之内さんは、後藤次利さんとの関係が発覚した後、後藤さんとその前妻との間で離婚調停が行われました。
後藤さんは慰謝料と養育費として3240万円を支払い、これにより1979年7月に離婚が成立しました。
そして、1979年12月には木之内さんと後藤さんは極秘に入籍されました。
しかしながら、後藤さんが当時19歳だった堀ちえみさんとの密会がスクープされた後、それが直接の原因かは不明ですが、1987年には二人は離婚されました。
そんな後藤次利さんはその後、堀ちえみさんではなく、人気アイドルだったおニャン子クラブの河合その子さんと1994年に再々婚しています。
竹中直人と再婚~現在に至る
1987年、後藤次利さんとの離婚後、木之内みどりさんは新たな人生の歩みを始められました。
彼女は写真学校に通い、その後カメラマンとしてのキャリアを積むことになります。
この転身は、彼女の元マネージャーである川岸さんによると、浅井企画から新人がデビューする際にも、木之内さんが宣材写真の撮影を手がけていたといいます。
そして1990年、木之内さんは32歳の時に、俳優の竹中直人さんと再婚されました。
この結婚は、彼女にとって新たな人生のスタートであり、現在も二人は幸せに暮らされています。
カメラマンとしての技術を磨きながら、私生活では竹中直人さんとの充実した日々を送る木之内さんは、芸能界を離れてからも自身の才能を活かし続けておられるのです。
こうして、木之内みどりさんは芸能界を引退した後も、新たな道を切り開き、プライベートでは再婚を通じて新しい幸せを見つけられました。
これからも、竹中さんと末永く幸せに過ごしてほしいですね。
木之内みどりの若い頃の歌や曲、動画や画像も
ここからは、木之内みどりさんの音楽キャリア、たった一冊の写真集について詳しく解説していきます。
発表したシングル曲13枚
1.めざめ
2.あした悪魔になあれ
3.ほほ染めて
4.おやすみなさい
5.学生通り
6.グッドフィーリング
7.東京メルヘン
8.ジュ・テーム
9.イマージュ
10.走れ風のように
11.横浜いれぶん
12.無鉄砲
13.一匹狼(ローン・ウルフ)
発表したアルバム8枚
- あした悪魔になあれ(1974年10月10日)
- 十八歳の今(1975年12月21日)
- 透明のスケッチ(1976年5月25日)
- グッド・フィーリング(1976年9月25日)
- 硝子坂(1977年2月25日)
- ジュ・テーム(1977年7月25日)
- 横浜いれぶん(1978年3月25日)
- 苦いルージュ(1978年7月25日)
木之内みどりが歌う『硝子坂』
『硝子坂』と聞くと多くの方が高田みづえさんの名を思い浮かべるかもしれませんが、実はこの楽曲を最初に歌ったのは木之内みどりさんでした。
この曲はシングルとしてではなく、同名のアルバム『硝子坂』に収録されたため、木之内さんのファン以外にはあまり知られていないかもしれません。
このアルバムが発売されたわずか1ヶ月後には、高田みづえさんによる『硝子坂』がデビューシングルとしてリリースされ、大ヒットを記録しました。
もし木之内さんが『硝子坂』をシングル曲として発売していたら、彼女の芸能生活の道筋も変わっていた可能性があります。
しかし、高田みづえさんの『硝子坂』が大ヒットしたのは、彼女の個性が大きく影響しているとも考えられます。
それでも、木之内さんの『硝子坂』を聞き比べてみると、その歌唱は決して劣るものではありません。
木之内さんのバージョンは、優しく語りかけるような、ささやくような甘い歌声が特徴で、聴く人に心地よさをもたらします。
この曲を作曲した宇崎竜童さんは、このアルバムに『硝子坂』以外にも5曲を提供しており、木之内さんに何か特別な感じるものがあったのかもしれません。
高田みづえが歌う『硝子坂』
高田みづえさんによる『硝子坂』のデビューシングルは、音楽業界において顕著な成功を収めました。
この楽曲は発売されてからたった1ヶ月半で31万枚という驚異的なセールスを記録し、見事オリコンチャートのトップ10にランクインしました。
『硝子坂』は、高田みづえさんの多くのシングルの中でも特に印象深い楽曲として広く認知されています。
特に、『私はピアノ』と並んで、彼女のキャリアを代表する曲の一つとされています。
高田みづえさんの『硝子坂』は、そのメロディラインや歌詞の美しさ、そして彼女の独特な歌声によって、多くの音楽ファンから愛され続けています。
この楽曲の大ヒットは、彼女の音楽業界における地位を確立する重要なステップとなり、彼女の長い音楽キャリアの中で、いつまでも色褪せない名曲として記憶されています。
長山洋子が歌う『硝子坂』
長山洋子さんが歌う『硝子坂』は、彼女のクセのないしっかりとした歌唱で、聴き手に深い印象を残します。
また、竹中直人さんと木之内みどりさんの結婚会見での発言が、長山洋子さんの『硝子坂』を聴くと理解できる瞬間です。
竹中さんは結婚会見で「自分がボロボロになるくらい弱いところを出せる」と述べ、二人が映画館に行くような夫婦でいたいと語っていました。
この言葉は、彼の人生における深い愛情と誠実さを表しており、現在もその精神を実践していることが想像されます。
『硝子坂』は、由紀さおりさんや荒木由美子さんなど、他の多くのアーティストにも歌われていますが、長山洋子さんのバージョンは、その独特の歌唱スタイルにより、特別な存在感を放っています。
彼女の透明感のある声と、曲の持つメロディの美しさが相まって、リスナーに心地よい音楽体験を提供しています。
たった1冊の写真集
木之内みどりさんに関連する写真集を調査したところ、驚くべきことに、彼女の写真集はたった1冊だけがヒットしました。
これは、彼女の芸能活動期間が4年と比較的短かったことにも関わらず、意外な結果です。
特に、木之内さんのブロマイドは当時非常に人気があり、その人気を鑑みれば、写真集も市場で十分受け入れられるはずでした。
しかし、時代背景の違いや、当時の出版業界の状況、または彼女自身の意向など、写真集が少ない理由は様々に考えられます。
木之内さんが活躍した時代は、今日と比べてメディアや出版の形態が大きく異なっており、写真集が現代ほど一般的ではなかった可能性もあります。
また、彼女自身がプライバシーを重視し、積極的に写真集の出版を望まなかったのかもしれません。
木之内みどりは現在何してる?竹中直人との結婚、子供、引退まとめ
木之内みどりさんは、わずか4年の芸能活動を経て40年以上前に引退されましたが、今もなお彼女の存在は多くの人々に記憶されています。
彼女には根強いファンが存在し、彼女の活動への関心は絶えません。
音楽面では、大ヒット曲はなかったものの、『硝子坂』や『横浜イレブン』のような曲は、彼女の音楽キャリアを語る上で欠かせない逸品として聴かれ続けています。
トーク番組で竹中直人さんと共に出演し、夫婦の日常を垣間見せる機会があれば、多くのファンにとっては喜ばしいことでしょう。
芸能界を引退してからも、木之内さんはマスコミとの対応をきちんと行い、周囲と良好な関係を保ち続けています。
この点は、彼女のまっすぐで誠実な人柄が影響していると考えられます。
木之内みどりさんは、芸能界を離れた今でも、多くの人々から愛される存在であり、彼女の人生は多くの人にとって魅力的で刺激的なものであると言えるでしょう。
- 1978年に芸能界を引退
- 現在は主婦として生活
- メディアへの露出は極めて少ない
- 1957年6月10日生まれ、2021年現在64歳
- 芸能活動時は細身のスタイルと愛らしい笑顔で人気
- 大ヒット曲はないものの、ブロマイドの売れ行きが非常に高かった
- 1990年に竹中直人と再婚
- 長女と長男の二人の子供がいる
- 引退後はカメラマンとして活動
- 引退してもマスコミと良好な関係を維持
- 年齢を感じさせない永遠の少女としてのイメージが残る
- 家族との幸せな日常を享受している