藤間静波:藤沢市母娘ら5人殺害事件の経緯と死刑執行までを時系列で解説!生い立ち&父親、母親など、顔やピースの真相

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引用元 アマゾン

日本の犯罪史において、時に忘れられがちながらも、その衝撃は多くの人々の心に深い傷を残した事件があります。それが「藤間静波:藤沢市母娘ら5人殺害事件」です。

この記事では、その犯人である藤間静波の生い立ちから、悲惨な事件の経緯、そして死刑執行に至るまでの道のりを、時間軸に沿って詳細に追います。

彼の物語は、深く複雑な家庭環境の中で形成され、最終的には日本の司法史に重要な足跡を残すことになりました。

藤間静波の家族、特に父親と母親との関係も、彼の人生と犯罪に至る背景を理解する上で欠かせない要素です。ここでは、彼の一生と、なぜ彼がこのような運命をたどることになったのかを探求します。

目次

藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人藤間静波(ふじませいは)

1960年8月21日生まれの藤間静波は、藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人で、この衝撃的な事件により日本中が震撼しました。

彼が犯行に及んだのは、わずか21歳という若さでした。

この時、彼は神奈川県平塚市上平塚の住所に記載されており、元工場従業員としての生活を終え、無職の身分でした。

藤間静波の人生は、中学卒業後から不安定な道を歩んでいたようです。

彼は職を転々とし、窃盗などの罪で何度も少年院の門をくぐりました。

少年院での彼の振る舞いは、問題行動を繰り返すことで知られており、その後の犯罪への道を予感させていました。

出所後、彼が運命的に出会った畑真輝子さんとの出会いは、後に起こる悲劇の始まりでした。

藤間はこの出会いを経て、5人の命を奪うという悲惨な事件を引き起こし、その後逮捕されました。

裁判の末、彼には死刑判決が下され、法務大臣だった鳩山邦夫が発行した死刑執行命令により、2007年12月7日に東京拘置所内で彼の生涯は幕を閉じました。47歳の若さでした。

「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の経緯

  • 横浜事件(1981年10月6日)
    • 場所:神奈川県横浜市戸塚区
    • 被害者:1人(共犯者)
  • 藤沢事件(1982年5月27日)
    • 場所:神奈川県藤沢市
    • 被害者:ストーカー相手の家族3人
  • 尼崎事件(1982年6月5日)
    • 場所:兵庫県尼崎市
    • 被害者:1人(藤沢事件共犯)
  • 判決
    • 死刑
    • 2007年12月7日執行(47歳没)

これらの事件は、藤間静波によって引き起こされたもので、彼はこれらの罪により最終的に死刑を宣告され、2007年に執行されました。

この一連の事件は、その悲惨さと犯罪の重大さから、日本の刑事史に深く刻まれています。

ここからは、この事件を時系列で解説していきます。

第1の事件「横浜事件」(平山勝美殺人事件)

1980年春、藤間静波と平山勝美は久里浜特別少年院で出会いました。

この出会いは、後に二人の運命を大きく狂わせることになるのです。

藤間は1981年5月に少年院を退所し、平山が働く空調設備会社に就職しますが、彼の人生は既に犯罪の道を歩み始めていました。

共にひったくりなどを行うことで金を得ていた彼らは、やがて神奈川県内でさらに犯罪を重ねていきます。

しかし、この犯罪パートナー関係は1981年8月に一変します。

平山が藤間の財布から現金20万円を盗んで姿を消したのです。

藤間はこれを裏切りとみなし、怒りに駆られます。

彼は平山を追い詰め、家族を脅迫して金を取り戻そうとします。

しかし、平山が警察に自首するかもしれないとの情報が藤間の耳に入り、彼の殺意は頂点に達します。

平山勝美の殺害

藤間は平山を殺害するための凶器を購入し、1981年10月6日未明、横浜市戸塚区の人気のない畑へ平山を連れて行きます。

そこで彼は平山を脅し、ガソリンをかけて焼き殺そうとしますが、失敗します。

平山が逃げようとした際、藤間は包丁で彼の太腿を刺し、抵抗を封じます。

最終的には、藤間は平山を操り小刀で滅多刺しにし、彼の命を奪いました。

平山の遺体はその日の朝に発見され、藤間は道路交通法違反で逮捕されますが、証拠不足で釈放されてしまいます。

この残酷な事件は、藤間静波という人物の深い闇を示す出来事となり、後に「横浜事件」として知られるようになったのです。

この悲劇的な事件は、少年院での出会いから始まり、信頼と裏切り、怒りと復讐の連鎖が繰り広げられた結果、一つの命が失われるという結末に至りました。

藤間静波の行動は、その後のさらなる犯罪への道を切り開いていくことになるのです。

第2の事件「藤沢事件」(藤沢市母娘3人殺害事件)

藤間の女子高生への執着

1981年11月20日、藤間静波は茅ヶ崎高校近くで、無邪気な女子高生たちの下校を待っていました。

その中には、16歳の畑真輝子さんも含まれていました。

藤間は彼女に声をかけ、自分を「山田等」と偽り、交際を迫ります。

藤間の甘い言葉に真輝子さんは自身の連絡先を渡し、この一見ささいな行動が後の惨劇へと繋がることになります。

素性を隠した不穏な交際

藤間静波は、畑真輝子さんとの出会いに執着し、彼女の心を掴もうと奔走していました。

当初は電話でのデートの誘いを断られていた藤間ですが、粘り強い交渉の末、ついに12月15日に辻堂駅での待ち合わせに成功します。

2人は熱海で一緒に過ごし、一時の楽しいひとときを共有しました。

しかし、その後の関係は急速に冷え込みます。

12月27日、藤間は突然畑真輝子さんの自宅にバイクで現れました。

彼女はこの突然の訪問に驚きと怒りを感じ、藤間に帰るよう促します。

真輝子さんの反応は藤間にとって予期せぬものでしたが、彼は諦めることなく、電話で再度デートの約束を取り付けました。

年の瀬のデートでは、藤間は畑真輝子さんに対して自分の感情を率直に伝えます。

彼の告白は真剣そのものでしたが、真輝子さんの返事は「他に好きな人がいる」というものでした。

この断られた瞬間は、藤間にとって大きなショックであり、彼の心に深い傷を残しました。

この出来事は、後の悲劇の序章となり、二人の関係は一変することになります。

拒絶された藤間の逆上

藤間静波と畑真輝子さんの関係は、一方的な感情の追求と続く拒絶の間で揺れ動いていました。

藤間の異常なまでの執着は、真輝子さんの心を遠ざける一方でした。

熱海後楽園でのデート代を返済するよう要求する藤間に対し、畑家は一貫して冷静な対応を見せ、金銭の支払いを拒否しました。

この拒絶は、藤間にとって許しがたいものであり、彼の心の中には怒りと失望が渦巻いていました。

1982年2月、藤間の感情は頂点に達し、彼は真輝子さんの自宅に押し掛けるに至ります。

玄関先で繰り広げられた激しい口論は、父である畑光治さんの介入で一時的に収束しました。

これ以上の関わり合いを避けるために藤間静波が要求したデート費用金額(3千円)を渡し「娘とはこれ以上関わるな」と言って一旦ことを収めることができました。

しかし、この出来事は藤間のストーカー行為を完全に止めることはできず、彼の異常な行動は更にエスカレートしていきました。

真輝子さんの家族は、藤間の要求に屈することなく、断固たる態度を貫きましたが、藤間は彼女たちの平穏を許しませんでした。

の後も真輝子さん本人にデート費用の返済を執拗に求めたり、交際を迫るなど、彼の行動はますます過激になっていきました。

真輝子さんとその家族に対する彼の恨みは深まる一方で、彼の心には止めどない憤りが満ち溢れていました。

通報をきっかけに殺害を決意

1982年4月、藤間静波の行動は一段と異常な領域に踏み込みます。

彼は少年院時代の知人を巻き込んで、畑真輝子さんの自宅に無言電話をかけるという嫌がらせを始めました。

同時に、彼の心の中では真輝子さんに対する殺意が静かに芽生え始めていました。

犯行に使う文化包丁や操り小刀を万引きするなど、彼は徐々に計画を具体化させていきます。

5月8日の夜、藤間は真輝子さんの家に押し掛け、金銭の返済を迫ります。

この時、畑家は藤間の要求に毅然とした態度で応じ、最終的に警察に通報します。

藤間は逃走するものの、この出来事が彼の心に決定的な変化をもたらしました。

彼は畑家の強い反発と拒絶を自身への侮辱と受け取り、家族全員への殺害を決意します。

同月24日、運命は藤間にさらなる暗転をもたらします。

新宿歌舞伎町で偶然再会した少年院時代の知人、岸純太郎から「犯罪で生計を立てよう」という提案を受けます。

藤間はこの提案に乗り、岸とともに行動を共にすることになります。

5月26日、藤間は岸に畑家の殺害計画を持ちかけます。

この計画に岸が同意したことで、彼らは畑家に対する凶行を実行に移すことを決定します。

藤間の心の中では、真輝子さんとその家族への恨みが怒りと憎しみに変わり、彼の行動は取り返しのつかない方向へと進んでいきました。

岸純太郎と共に畑真輝子さんの自宅を襲撃

翌27日の20時頃、顔を知られていない岸純太郎が新聞屋を装い畑家のインターホンを鳴らしました。

その日の昼間、畑家には偶然本物の新聞屋が集金のために訪れましたが、母親の晴子さんはパートで不在だったため、集金を断りました。

同日の夜、畑光治さんは家にいませんでした。

在宅していたのは真輝子さんとその母晴子さん、そして13歳の妹真理子さんのみでした。

新聞屋が未払いの集金のために再訪したと思ったようです。

母親の晴子さんは何の疑いも持たずにドアを開けたところ、藤間が手袋をはめ、包丁を握った状態で家の中に踏み込んだのです。

岸はすぐにドアチェーンを掛け、電話線を切断。彼らはまず、妹の真理子さんを襲い、次に母親を台所で刺しました。

異変に気づいた真輝子さんが2階から駆け下りてくると、藤間は彼女も襲い、胸部を刺しました。

藤間と岸はもともとは父親の帰宅を待ち伏せるつもりでしたが、悲鳴が大きかったため、近隣住民に気づかれることを恐れて逃走しました。

父親の光治さんは、この惨劇のわずか30分後に帰宅し、家族の遺体を発見しました。

彼は隣家の電話を借りて警察に通報しました。

事件現場で、晴子さんの背中と真理子さんの右腕にはそれぞれ操り小刀と文化包丁が突き刺さった状態で発見されました。

また、床には未使用の状態で20cmの刃渡りを持つ刺身包丁がケース入りで放置されていました。

この状況は、藤間静波が意図的に証拠物となりうるものを身につけずに現場に残すという計画的な行動だったことが、後の調査で明らかになりました。

この事件により、神奈川県警は深刻な捜査に乗り出しました。

しかし、畑家が残していた「山田等」という名前の戸籍は見つからず、藤間の身元特定にも時間がかかりました。

2000人以上に及ぶ事情聴取を行いましたが、動機や容疑性を持つ人物は見つからず、藤間への容疑が強まることになりました。

第3の事件「尼崎事件」(岸純太郎殺害事件)

畑真輝子さんたちを悲惨に殺害した後、藤間静波と岸純太郎は逃走を開始しました。

藤間の実家に一度戻り、変装のための着替えを済ませた後、彼らは博多駅に向かい、福岡市内で一時的に身を隠します。

この間、彼らは犯行で得た30万円の逃走資金を使い、映画館で時間を潰すなどしていました。

しかし、藤間静波は一緒にいる岸純太郎が自分を裏切って警察に自首するのではないかと疑心暗鬼になります。

そのため、藤間は岸を信用できるか試すために岸が財布を盗もうとする状況を作り出しました。

岸が財布に手を伸ばした瞬間、藤間は彼に操り小刀を突きつけ、「裏切り者」と断じます。

1982年6月5日、藤間は岸とともに大阪に戻り、尼崎市内のマンションで岸を殺害することを決意しました。

岸は藤間に誘導される形でマンションの踊り場に連れて行かれ、そこで藤間は突然岸を襲いました。

岸は必死に逃げようとしますが、藤間は彼を滅多刺しにして殺害しました。

岸の遺体はその夜、マンションの住民によって発見され、警察に通報されました。

現場に残された25箇所もの刺し傷が、藤間の深い恨みと裏切りへの怒りを物語っていました。

岸の遺体に突き立てられた操り小刀は、その後の捜査で重要な証拠となりました。

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藤間静波:逮捕、裁判~死刑執行までの経緯

  • 藤間静波の逮捕
  • 藤間静波の顔写真とVサイン
  • 裁判の経緯:死刑判決まで
  • 2007年に死刑執行

藤間静波の逮捕の経緯

藤間静波と岸純太郎が関わった悲惨な事件の後、藤間は名古屋市へと逃走し、その後静岡市を経て東京へと向かいました。

池袋西口公園で手配師と出会い、埼玉県大宮市の建設現場で働き始めます。

この際、藤間は作業員宿舎に身を潜めていました。

藤間は警察の捜査状況を探るため、両親や少年院時代の仲間に度々電話をかけていました。

この行動が藤間の逮捕につながることとなります。

少年院時代の仲間の一人が警察に通報し、警察は特別捜査班を埼玉県全域に派遣し、藤間の潜伏先を徹底的に捜索しました。

藤間が頻繁に訪れていた近隣の菓子店での目撃情報が警察によって確認されたことから、警察は店に張り込みを始めました。

そして、1982年6月14日の午後3時35分頃、藤間は菓子店を訪れたところを、警察によって脅迫容疑で逮捕されました。

藤間の逮捕は、母娘3人殺害事件発生から18日後のことでした。

警察は藤間が関与したと見られる3件の殺人事件の捜査を進め、藤間と岸純太郎の関係が明らかになりました。

藤間は逮捕後も犯行を否認し続けましたが、警察は彼の関与を強く疑い、捜査を進めました。

藤間の逮捕により、一連の悲劇的な事件に終止符が打たれました。

しかし、彼の行動は多くの疑問を残し、警察の捜査はさらに続くこととなりました。

藤間静波の顔写真とVサイン

藤間静波という名は、残忍な犯罪を犯した犯人として記憶されていますが、彼が逮捕された際の行動も多くの人々の記憶に残っています。

特に、護送される際や裁判の場で見せた彼の挑発的なVサインは、今でも人々の間で語り継がれています。

このVサインは、逮捕後の藤間が護送車内で見せたもので、多くの報道カメラに捉えられました。

彼は窓越しに明るく笑顔でピースサインを作り、その姿は当時の報道で広く公開され、大きな話題となりました。

この行動は、彼が自らの罪を軽視しているかのような印象を与え、被害者遺族を含む多くの人々の怒りを買いました。

また、現場検証や裁判においても藤間は同様のVサインを見せており、彼の無神経な態度は多くの人々の心を傷つけました。

1982年10月12日には、横浜地裁への移送時にも報道陣に向けてこのサインを見せ、閉廷後の退廷時にも傍聴人や法廷外のカメラマンに対してVサインを見せつけたとされています。

裁判の経緯:死刑判決まで

第一審での死刑判決

1982年10月12日に始まった横浜地方裁判所での藤間静波被告の初公判は、注目を集めました。

彼は黙秘権を行使し、弁護側は彼の脅迫事件に関する逮捕が不当であると主張し、自白は強制と拷問によるものだと無罪を訴えました。

一方、検察側は証拠220点を提示し、証言によって犯行を立証しようと試みました。

藤間被告は拘置所での自殺未遂を経験し、治療を受けていましたが、1986年3月25日に開かれた公判で、彼は以前の無罪主張を撤回し、5人の殺害を認める発言をしました。

弁護側は精神的な機能障害を理由に精神鑑定を申請しましたが、裁判長はこれを却下しました。

1987年11月26日、検察側は藤間被告に対して死刑を求刑し、翌年1月14日の最終弁論で、弁護側は無罪を主張しました。

しかし、1988年3月10日に下された判決では、藤間被告に死刑が言い渡されました。

判決では、藤間被告の犯行が極めて凶悪で残虐であることが強調され、彼の動機や行動に酌量の余地がないとされました。

判決後、藤間被告は突然稲川聖城への好意を表明し、Vサインを見せるなど、反省の様子がないとされました

この裁判の結末は、社会に大きな衝撃を与え、長く語り継がれることとなりました。

藤間静波の裁判は、日本の刑事司法史において重要な位置を占める事件として記憶されています。

控訴取り下げ騒動の控訴審

藤間静波被告の控訴審は、彼の突然の控訴取り下げ宣言から始まりました。

1989年5月6日夜、彼は東京拘置所で、「もう助からないから控訴をやめる」と職員に告げました。

この意外な発言は、法的な波紋を広げました。

控訴審の初公判が近づく中、藤間被告はその意思を固くし、公判で何度も控訴取り下げの意向を表明しました。

彼の弁護団は度々彼を説得して、控訴の継続を勧めましたが、藤間被告は変わらず控訴取り下げを主張し続けました。

1991年4月18日には、彼は東京拘置所で控訴取り下げに必要な手続きと書類の交付を強く求め、最終的に「控訴取下書」を作成し、提出しました。

これにより、すでに11回開かれた公判は中断し、法的な混乱が生じました。

東京高裁は藤間被告の控訴取り下げを有効と判断しましたが、弁護団はこの決定に異議を申し立て、特別抗告を行いました。

そして1995年6月28日、最高裁は「判決によるショックなどの精神障害が原因の控訴取り下げは無効」と判断し、東京高裁での公判の再開を決定しました。

この控訴審の展開は、日本の法律界において非常に注目される事態となり、藤間静波被告の精神状態と法的な責任に関する議論を再燃させました。

審理再開

2000年1月24日、藤間静波被告の控訴審の判決公判が東京高裁で開かれました。

この公判は、日本の刑事司法における大きな転換点となる事件のひとつとして、大きな注目を集めました。

一審での死刑判決に対し、弁護側は藤間被告の精神状態を主張し、死刑判決の不当性を訴えました。

しかし、裁判長はこの主張を退け、「藤間被告の言動に異常性は認められるものの、これは長期の拘禁生活による影響であり、犯行時の刑事責任能力に疑いはない」と判断しました。

裁判長は、藤間被告の行った計画的かつ残虐な犯行の性質を指摘し、「彼は自身の行為が死刑に至ることを十分に理解していた」として、一審の死刑判決を支持しました。

この判断により、弁護側の控訴は棄却され、藤間被告に対する死刑が確定しました。

弁護側はこの判決に不服を申し立て、最高裁判所に上告しましたが、控訴審の裁判長の判断は、犯罪の重大性と被告の責任能力を明確に示したものであり、日本の法曹界において重要な議論を呼び起こしました。

最高裁による死刑確定

藤間静波事件の裁判は、日本の刑事司法史において長期間にわたる特筆すべき事例として記憶されています。

この裁判は、複雑な法的論争と精神状態の問題が絡み合い、16年にも及ぶ長い期間を要しました。

2004年3月23日、最高裁判所における上告審の口頭弁論が行われ、死刑判決の破棄を求める弁護側と、上告棄却を主張する検察側が激しい法廷バトルを繰り広げました。

その後、同年6月15日には上告審判決公判が開催され、最高裁判所は一審及び控訴審の死刑判決を支持し、藤間静波の死刑確定を決定しました。

弁護側の上告が棄却されることで、藤間静波の死刑は最終的に確定したのです。

当初、1988年3月10日に横浜地方裁判所で死刑判決が下された時から、最終判決が確定するまでの期間は、異例の長さとなりました。

この裁判は、控訴審での藤間被告の精神状態と控訴取り下げの有効性が争点となり、法的な複雑さに加え、被告の心理状態に関する議論も加わりました。

2007年に死刑執行

藤間静波の物語は、2007年12月7日、彼が47歳であった時に東京拘置所にて死刑が執行されることで幕を閉じました。

彼の逮捕から死刑執行までの長い年月は、日本の刑事司法制度における重要な節目と見なされています。

藤間静波が収監されていた期間に、彼を面会したのは母親だけだったと伝えられています。

長期間の独房生活は藤間静波の身体的、精神的状態に深刻な影響を及ぼしたとの憶測もありますが、その詳細は公にされていません。

この死刑執行は、国会会期中という極めて異例のタイミングで行われました。

当時の法務大臣、鳩山邦夫は、死刑執行の公表理由として、「死刑という重大な刑罰が法に基づき適切に実行されているかどうかは、被害者や国民に知らされるべきだ」との立場を明らかにしました。

藤間静波の生い立ち:幼少期~少年院出所まで

  • 幼少期:孤独と苦悩
  • 中学時代:孤立と逆境の日々
  • 卒業後:犯罪への道
  • 少年院出所後:殺人事件を起こす

幼少期:孤独と苦悩

藤間静波は、1960年8月21日、神奈川県茅ヶ崎市の静かな街で生まれ、その後平塚市で成長しました。彼の幼少期は、家庭内での葛藤と孤独に満ちたものでした。

家族は平塚市の狭い長屋に住んでおり、藤間静波は6歳下の妹が生まれた後、母親からの愛情が薄れると感じたようです。

彼は4畳半の部屋で両親と共に生活し、幼い頃は母親の愛情を受けていましたが、妹の誕生によりその愛情は妹に向けられるようになりました。

小学校では、彼は友達との交流が少なく、孤独な時間を過ごしていました。

学業成績も芳しくなく、喧嘩っ早い性格で知られていました。

小学校での一件では、クラスの生徒全員が彼を「嫌いな生徒」として挙げており、その孤立感は深刻でした。

藤間静波はまた、幼い頃から非行に走りがちで、学校を抜け出すことが多く、万引き事件を起こすこともありました。

小学4年生の時には、同級生の女子生徒に鉛筆を突き刺すという衝撃的な事件を起こし、母親が学校に呼び出される事態となりました。

この頃から、彼は周囲の子供たちからさらに孤立し、いじめの対象となることもありました。

彼は「死にたい」と母親に助けを求めるほどの絶望を味わいました。

そして、小学6年生の時、同級生によるモップでの暴行を受けるなど、彼の学校生活は苦難に満ちていました。

藤間静波の幼少期は、愛情と安定を求めながらも、孤独と苦悩の中で過ごされた時期であったことがうかがえます。

家庭環境と学校での経験が、彼のその後の人生に大きな影響を与えたと考えられます。

中学時代:孤立と逆境の日々

1973年4月、藤間静波は平塚市立春日野中学校に入学しましたが、この時期は彼の人生において特に苦しいものでした。

彼は中学生活の初めから深刻ないじめに遭い、同級生からは「藤間を殺す会」が結成されるほどの厳しい環境に置かれました。

これらの経験は、彼の心に深い傷を残したと思われます。

藤間静波はこの時期、新聞配達を始めて稼いだお金で妹と共に果物を楽しむなど、良き兄の一面を見せていました。

しかし、家庭内では状況は異なり、ピアノを与えられた妹への嫉妬心から家庭内暴力を振るうようになりました。

彼の学業成績は極端に低く、中学2年生と3年生の間は全教科で最低評価である「1」を受けていました。

中学の卒業文集では、彼は自分の将来について「将来はお金持ちになって御殿を建てているだろう」と書いたほか、寄せ書きに平仮名で「ぼくのことをわすれないでほしい」とも書き残したようです。

卒業後の犯罪への道

1976年3月に中学校を卒業した藤間静波は、その後、不安定な職歴を歩み始めます。

最初の就職は自宅近くの自動車部品工場でしたが、わずか3ヶ月で退職。

その後も父親が働いていた鉄工会社を含む、様々な職場を転々としましたが、どこでも長続きすることはありませんでした。

この不安定な職業生活は、藤間静波が犯罪の道へと進むきっかけとなります。最初の逮捕は1977年10月、17歳の時で、平塚市内で窃盗を働いて逮捕されました。

その後も窃盗癖はエスカレートし、様々な犯罪行為に手を染めていきます。

1978年6月、ひったくり事件で逮捕され、中等少年院へ送致されました。

ここで藤間静波は、家族からの支援をほとんど受けることなく、仮退院の申請をするまでに4ヶ月を要しました。

1979年10月の仮退院後も、再び犯罪に手を染め、1980年3月には再逮捕され、2度目の少年院送致を受けます。

この期間、藤間静波は少年院で18歳から20歳までの誕生日を迎え、通算在院期間は2年3ヶ月に及びました。

この厳しい経験は、彼の人生に大きな影響を与えたと考えられます。

少年院での生活の中で、後に共犯者となる平山勝美と岸純太郎という2人の少年と出会い、親しくなりました。

しかし、悲しいことに、彼が少年院にいる間、家族からの面会はほとんどなく、孤独な時間を過ごすことが多かったようです。

さらに、仮退院の際には、彼の両親が身元引受を拒否するという辛い状況に直面しました。

1981年5月の久里浜特別少年院退院後、21歳となっていた藤間静波は、成人としての自由を得るも、その自由は短命でした。

およそ半年後には、藤沢市の母娘5人殺害事件を起こし、その後の人生を犯罪に捧げることになります。

少年院出所後に殺人事件を起こす

1981年5月8日、久里浜少年院から退院した藤間静波は、両親からの受け入れを拒否されたため、横浜市内の更生施設へ身を寄せました。

しかし、彼の心はすでに「大胆な完全犯罪を行う」という思いで支配されており、施設を1日で離れました。

家に戻ろうとした藤間静波は、再び家族から拒絶され、以前に久里浜少年院を退院した平山勝美の元へ向かい、彼が勤めていた鎌倉市の空調設備会社に就職しました。

1981年10月6日から翌年6月5日までの約8ヶ月間で、藤間静波は5人の命を奪う事件を起こしました。

逮捕された後の裁判では、控訴取り下げなどいろいろありましたが、最終的に最高裁で死刑が確定しました。

死刑確定から3年後の2007年12月7日に死刑が執行されています。享年は47歳でした。

藤間静波の家族:父親と母親

藤間静波の父親

藤間静波の父親は、1926年10月7日に神奈川県中郡の金目村で、豪農の家庭に長男として誕生しました。

家族は商店も経営しており、裕福な環境にありましたが、藤間静波の母親との関係が悪化し、やがて平塚市内でアパート暮らしを始めました。

親戚の会社で働き始めたものの、競輪やパチンコに熱中し、生活は困窮していきます。

金銭的な問題で妻と衝突し、時には暴力も振るっていたようです。

しかし、この父親は幼少期の藤間静波には深い愛情を注いでいました。

藤間静波が小学2年生の時、学校での事故により重傷を負った際、父親は寝ずに看病を続けました。

この出来事は、藤間静波にとって大変な意味を持っており、後に少年院で「これまでで最も嬉しかったこと」として振り返っています。

中学を卒業する頃には、藤間静波の父親は息子の家庭内暴力を抑制できなくなり、事実上手を引いてしまった状態でした。

藤間静波の荒んだ青年期において、この家庭環境の影響は計り知れないものがありました。

母親との複雑な関係

藤間静波の母親は1930年3月21日に富山県富岡市で生まれ、1930年代には珍しい高等女学校を卒業した教養ある女性でした。

25歳の時に神奈川県平塚市に移り住み、自転車店を経営する藤間静波の父親と出会い、1957年に結婚しました。この結婚は父親の家族の反対を押し切ったものでした。

母親は気が強い性格で、父親の家族との不和が原因で別居を選びました。

31歳で藤間静波を出産した際には、古典文学からインスピレーションを受けて「静波」と名付けましたが、妹が生まれると母親は妹の世話に専念し、藤間静波の教育は父親に一任しました。

藤間静波が小学2年生の頃、母親は妹を起こしたという理由で藤間静波を押し入れに閉じ込めるなどの虐待を行い、学校でもトラブルを引き起こすようになりました。

いじめを受けていた藤間静波を、母親は学校に猛抗議することで守っていましたが、小学4年生での鉛筆事件をきっかけに信頼を失い、突き放すようになりました。

この母親の極端な行動や無責任な態度が、藤間静波の心を歪ませ、問題行動をエスカレートさせる一因となったことは否めません。

母親の教養と強い性格、そして家庭内での複雑な対応が、藤間静波の生い立ちに大きな影響を与えました。

藤間静波とは:藤沢市母娘ら5人殺害事件の犯人まとめ

「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の犯人、藤間静波の背後には、彼を犯罪へと導いた複雑な家庭環境がありました。

彼の父親はギャンブル依存症で、暴力的な一面を持っていた一方で、母親は過保護で極端な教育を施し、最終的には息子を見放すようになりました。

このような家庭環境は、藤間静波の心に歪みを生じさせ、彼を残忍な犯罪者へと変貌させる一因となりました。

1981年10月6日から1982年6月5日にかけて、藤間静波は少年院時代の知人2人と共に、藤沢市に住む一家を標的にした殺人事件を起こしました。

この事件で高校生と中学生の姉妹とその母親が犠牲になり、日本中を震撼させました。

藤間静波の凶行は、裁判の傍聴席や報道カメラに向けて笑顔でVサインをする姿が象徴的であり、その写真は今もインターネットで見ることができます。

幼少期から家庭内の問題に苛まれ、中学卒業後は犯罪に手を染め、少年院生活を送った藤間静波。

彼の行いに同情の余地はあるものの、5人の命を奪った罪は決して消えることはありません。

2004年に死刑判決が下り、2007年にその判決が執行され、藤間静波はこの世を去りました。

「藤沢市母娘ら5人殺害事件」で亡くなった犠牲者の方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

この記事では、藤間静波という人物と彼が起こした痛ましい事件の概要を紹介しました。

  • 藤間静波は1960年8月21日生まれ、神奈川県茅ヶ崎市の静かな街で生まれ、平塚市で成長した。
  • 彼の幼少期は家庭内の葛藤と孤独に満ちていた。
  • 中学時代は深刻ないじめに遭い、「藤間を殺す会」が結成されるほどの厳しい環境に置かれた。
  • 中学卒業後、職を転々とし、窃盗などの罪で何度も少年院に入院。
  • 少年院での振る舞いは問題行動を繰り返し、犯罪への道を予感させた。
  • 出所後、約8ヶ月間で5人の命を奪う事件を起こし、逮捕された。
  • 2007年12月7日に東京拘置所内で死刑が執行され、47歳で死亡。
  • 藤間静波の逮捕から死刑執行までの期間は、日本の刑事司法制度における重要な節目。
  • 彼が収監されていた期間に面会したのは母親だけだった。
  • 藤間静波の物語は、複雑な家庭環境が彼を犯罪へと導いた。
  • 彼の父親はギャンブル依存症で暴力的、母親は過保護で極端な教育を施し、最終的に息子を見放した。

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